【ラノベレビュー】『ミス・ファーブルの蟲ノ荒園』(電撃文庫)

 

ミス・ファーブルの蟲ノ荒園(アルマス・ギヴル) (電撃文庫)

 

荒地〈アルマス〉

 それは少女にとって『楽園』と同義だった。

 

 時は19世紀のフランス、作中に「フランス革命」や「ナポレオン戦争」の文字が出てくるから、漠然と学校の世界史で習ったフランスをイメージすればよい。が、18世紀中頃からヨーロッパを中心に確認され始め、やがて世界各地で目撃されるようになった超常の生命体――〈蟲〉はこの世界にしかいない。大きいもので体長はゆうに20メートルを超える巨大さだ。ヒロインの少女・ファーブルは1840年代世界最小の飛行機械として知られる『シエルバレ』を操縦し、〈蟲〉を観察、撃退する。ただ、決して殺しはしない。むしろ巨大なフンコロガシに出合うと、間近で見ることができることに興奮し、ムッシューと呼びかけるほどに、〈蟲〉を愛している。その少女像は宮崎駿風の谷のナウシカ』を思わせる。

 さて、物語の冒頭、強烈な印象を持って現れる20メートル級のフンコロガシであるが、この物語は〈蟲〉を直接的に扱う物語では実はない。18世紀の終わりごろに発見された寄生虫型の〈蟲〉『シーメラ』が人間に寄生して変異した〈裸蟲〉たちが、自分たちの権利を勝ち取るために立ち上げたのが秘密結社〈ブリュム・ド・シャルール〉だ。主人公・秋津慧太郎とヒロイン・ファーブルが彼らのテロリズムを食い止めるための戦いがこの物語のクライマックスだ。

 ヒロインの紹介と物語のあらすじを紹介しておいて、主人公の紹介が遅れたが、主人公・秋津慧太郎は日本から船でフランスにやってきた武家の次男だ。

 寄生虫によって変異させられた人間というモチーフはどこかSF的なものを想像させるが、作者が19世紀のヨーロッパを舞台にしたことはもちろん意図的だ。テロリズムを画策する〈裸蟲〉たちはその容貌から一目で見分けがつく。異様で醜い。彼らは人として扱われずに虐げられている。自身の持つ特異な能力のせいで幼少のころに〈魔女〉と呼ばれ忌み嫌われた経緯を持つファーブルは、〈裸蟲〉たちの狩り出しを画策する枢機卿を暗殺しようとする〈ブリュム・ド・シャルール〉の計画を知りながら、それを止めることを躊躇している。一方で、慧太郎はテロリズムを断固許せないものとしてファーブルと真っ向から意見を対立させる。

 思い起こせば、19世紀のヨーロッパとは移民の世紀であった。19世紀の終わりごろから始まる急激な人口減少に歯止めをかけようとフランスが移民を受け入れはじめ、一次大戦の前にはかなりの数のイスラム系移民が移り住んでいたことは有名である。しかし、そうして移民が大々的に行われる前にも各国の独立運動からあぶれた人々の移民は起こっていたはずだ。彼らに対する扱いは必ずしも好意的なものばかりではなかっただろう。〈裸蟲〉はそんな〈原〉移民たちと重なる。また、ヨーロッパが魔女狩りの歴史を有しており、ファーブルがその特異な能力ゆえ〈魔女〉と呼ばれたという記述から、マイノリティをめぐるドラマの舞台としてこの時代のこの場所を選択したのだと想像することは間違いではあるまい。

 そして、日本からやってきた秋津慧太郎である。彼が日本からやってくる必然性は一見するとない。しかし、〈ブリュム・ド・シャルール〉のテロをめぐって、いけないことはいけないという慧太郎の正論に対して、ファーブルが「あんたが事あるごとに披露する青臭さっ、たまに我慢できないくらい鼻につくことがあるって!正しさの陰に隠れなきゃ満足に主張もできない人間なんて、つくづく手におえないわよ!」という時、それまで前景化されてこなかった「武士の次男」という慧太郎のアイデンティティ(と同時にコンプレックス)が強烈に意識される。それはまた、フランス人の少女と日本人の少年というまったく関係のない二人が、一方はかつてしいたげられた者、他方は武家という支配層の生れであるという非対称な立場であったことに遅ればせながら気づかされ、二人の断絶を生む場面でもある。19世紀のヨーロッパを舞台に、虫好きの異端な少女と日本からやって来た武家の次男の少年をペアで組ませて、マイノリティをめぐる問題に立ち向かわせる、というストーリーに、作者の巧妙さを感じさせる。

 冒頭の二行に戻ろう。ここでの荒地とは「雑草や潅木などが生い茂る不利用地」のことだろう。そこは様々な生命にあふれているが、人間には少々鬱陶しい。そんな荒地を「漂白」することに人間は慣れ過ぎてしまった。だから少しでもけがらわしいものを見ると排除せずにはいられない。しかし、ファーブルにとって、荒地は楽園だ。それは必ずしも彼女が蟲愛ずる姫君だからではない。雑駁なもの、汚きものも受け入れているありようを楽園と呼んでいるのだ。様々なものを受け入れられるからこそ、荒地は強い。物語は〈ブリュム・ド・シャルール〉によるテロで荒廃した街の描写で締めくくられる。引用しよう。

 

 彼女が高らかに言って、瓦礫ばかりが目立つ大通りを。少なからず血が流され、人々が醜悪さを露呈させた街の中を。それでも今は、誰もが再起に向けて協力し合う、その輪の中心を。

 慧太郎はその日、その瞬間、確かに幸福な荒園のなかにいたのだ。

【ラノベレビュー】『負けヒロインが多すぎる!3』

 『負けヒロインが多すぎる!3』の感想というか考察を書いていきます。

 本作のあらすじ、登場人物の紹介、2巻までの話の流れなどは省略しますが、一方でネタバレはあります。読み終わった方向けに書いた文章です。

 

負けヒロインが多すぎる! 3(ガガガ文庫) 書影

(前提① 本作にとっての学園祭の位置づけ)

 

 本作は、1年生にとってはじめての、3年生にとって最後のツワブキ高校学園祭に向けた準備と本番での、登場人物たちの奮闘と人間模様が描かれます。季節は10月です。

 

 一般的に、ライトノベルなど高校を舞台とした学園小説において、学園祭は、学園生活での修学旅行に次ぐ大イベントですが、文化部員にとっては、2つの理由で、修学旅行以上に大きなイベントになるでしょう。

 1つ目は、特に節目となる大会のある運動部(及び一部の文化部)と違って、学園祭がハレの舞台となることです。

 2つ目は、1つ目と関係しますが、学園祭がある種の節目として機能するので、代替わり(3年生の引退)が行われることです。

 

 1つ目について、本作でもやはり主人公・温水和彦の所属する文芸部は展示の発表を行います。

 2つ目について、ツワブキ高校文芸部は2年生不在なので、1年生が主導して展示を成功させなくてはいけません。なので、文芸部1年生たちにとって、代替わりとしての文化祭は特に大きなイベントとなるでしょう。

 その1年生の中でも、時期部長に任命された小毬知花は大きな責任感を持って、学園祭の準備を行います。

 

(前提② 小毬知花と玉木慎太郎との関係)

 

 時期部長に任命された小毬知花ですが、現部長の玉木慎太郎は、たんなる先輩-後輩、部長-次期部長というだけではありません。言うまでもありませんが、小毬は部長に好意を寄せており、1巻で告白していますが、ふられています。

 

 玉木は小毬にとって、公私ともに大きな存在であるといえます。

 ここでは、それぞれ文芸部を「公」、個人的な関係(片思い)を「私」としていますが、もちろん、一般論として、高校生にとっての学校生活を「公」と「私」に分けられるものではありません。そのことは同時に、小毬が恋したのが「玉木慎太郎」でも「文芸部長」でもなく、「玉木慎太郎・文芸部長」であることも意味するでしょう。

 

 だから、小毬にとって、今度の学園祭は本当に重要です。

 自分が文芸部の部長として、これからの文芸部を引っ張っていけることを示し(公)、玉木への片思いに踏ん切りをつけ(私)なくてはいけないからです。

 このことは、本作の作品紹介に「感謝とさよならのラブレター」とあることと照応しています。

 

(小毬知花はなぜ倒れるか)

 

 ここまで、本作にとっての学園祭を位置づけ、小毬と玉木の関係性を整理することで、小毬にとって学園祭が持つ意味を明らかにしました。

 小毬は学園祭の成功に向けて、一生懸命準備を進めますが、そこには危うさがあります。

 具体的には、小毬は展示物の作成に打ち込むあまり、過労で倒れてしまいます。(P145)

 

 しかし、小毬の展示物の準備がうまくいかないことは、ある意味で物語上の必然といえます。これは、物語を盛り上げるために、あるいは小毬と温水の仲を接近させるために、「ハードル」を設けた方が物語として面白いということ――ではありません。

 

(小毬知花の立ち位置)

 

 小毬がなぜ倒れるのでしょうか。小毬が大変な作業を一人で抱え込んでしまう内向的な性格にあるのでしょうか。弟、妹の世話が大変だからでしょうか。そうではない、とあえて言いましょう。

 そこには、文芸部における小毬の独特の立ち位置があります。そのことを確認してみましょう。

 

 ツワブキ高校文芸部には小毬含め、4人の1年生がいます。

「1年生の中では一番の古株だし、部に対する思い入れも強い」(P24)小毬知花、「私(小毬)が言って、ようやく部活に来るようになった」(P315)温水和彦、「彼氏とかできたら、幽霊部員に」なりそうな、八奈見杏菜(P24)、陸上部が本業の焼塩檸檬

 こうしてみると、文芸部における小毬の特別な立ち位置が見えてくると思います。

 物語の終盤で「私には文芸部しかない」(P316)と小毬自身が言うことからも明らかなように、小毬と他の1年生の間には、文芸部への真剣際に温度差があります(少なくとも、小毬にはそのように感じられています)

 それぞれの文芸部へのコミットの仕方は、学園祭が終わったからといって、変わらないでしょう。(学園祭後に、次の文芸部を担っていくという意識は他の3人からはあまり感じられません。

 

 以上のことから強調しておきたいのは、「前提②」で確認したように、小毬は文芸部のためにも玉木のためにも学園祭の展示を一生懸命頑張るのですが、展示がどんなに成功したとしても、他の1年生部員3人がいつかいなくなってしまうかもしれない、という不安は解消されないということです。

 残酷な言い方をすれば、この不安が解消されない限り、小毬がどんなに頑張って展示を成功させても、この物語における学園祭の「成功」はありえません。

 

「先輩たちが卒業したら一人になる」(P315)かもしれないという小毬の不安は、物語の奥底で作品に緊張感を与え続け、そして、クライマックスにおいて、小毬の悲痛に訴えとして現れます。

 

「1年生は4人いるけど、みんなは他にも居場所がある人だから、いついなくなるか分かんないじゃない!」(p315)

 

(本作のクライマックスで起きていること)

 

 小毬の訴えに、読者は心を揺さぶられます。それは、温水を通して読者が小毬の隠された思いに気が付くからです。

 本作は小毬が学園祭を通して、玉木に「感謝とさよならのラブレター」を届けることを主題とする物語として読めますし、実際、そのように語られ、小毬の不安はこのシーンまで作者によって意図的に隠されているともいえるでしょう。

 だから、温水(及び読者)は先の引用によってはじめて小毬の不安に直面し、この物語の背後にあった緊張の正体を知るのです。

 そこで読者はある種のカタルシスを得るといってもいいでしょう。

 

 さて、別の観点から注目したいのが、他の3人に比べて小毬の「部に対する思い入れ」が強い(P24)こと自体は、1巻の時点から変わりがないことです。

 本作では、小毬と他の3人との文芸部への思い入れの強さの違いが、学園祭と代替わりを通して、3年生引退後の孤独として前景化されているのです。

 1年生同士の人間関係がなにか構造的に大きく変化したわけではないのに、ストーリーによって関係の意味が変容するということです。あるいは、1巻で張り巡らされた人間関係それ自体がある種の伏線として、本作によって回収されているとも言えるでしょう。

 本作のクライマックスの妙味はその点にもあると思います。

 

(温水が部長になるということ)

 

 さて、小毬の不安はどのように解消されるのでしょう。

 結論から言えば、温水が部長を引き受けるという形で、です。

 しかし、なぜ温水が部長になることが、解決(小毬の不安の解消)になるのでしょうか。

 温水が部長を引き受けることは、文芸部に対して責任を持ち、信頼のおける部員となることであり、人前に立って話すことなど、小毬が不得手な部分をカバーすることで、文芸部が安定することであるでしょうし、あるいは、主人公が主人公らしい地位を与えられること、と解釈できるかもしれません。しかし、それでは不十分な気がします。

 

 前提②で確認した通り、小毬にとっての部長は、公私ともに要となる存在でした。その位置に温水が付くことは、部長の役割の事務作業を行うことや、主人公らしい地位に収まること以上の意味を持ちます。

 もちろん、温水が部長になったことで、即座に小毬が温水に好意を持つと考えることは性急にすぎますが、そのような解釈の余地はあります。

 それは作品の中から具体的に読み取れます。

温水は小毬に対し、「俺、ずっと一緒にいるから」(P323)というメッセージを送ります。

 

 そのメッセージは誤解を与える表現として小毬に伝達されますが、小毬はその誤解をあえて解かずにこう応答します(以下、P324)。

 

小毬が女子の輪から抜けて、一歩前俺に向かって足を踏み出す。

「ぬ、温水。言ったからには、せ、責任とれ」

「えっと、それはつまり……」

 小毬は前髪の間からはにかんだ笑顔で俺を見上げてくる。

 

「逃げられない、からな。頼むぞ――部長」

 

 

※追記

 これだけ書いておいてなんですが、特に深い考察とかではなくて、誰でも読めば当たり前に感じることを言語化しただけです。なので書きすぎ(言うのは野暮)な部分もあると思いますが、お許しください。

 本文にうまく入れられなかったのですが、最後のシーン、LINEでのやりとりは小説で生きる表現ですね。書き言葉が誤解を誘発して美しいラストに流れるのも見事です。

 

 さて、今回も八奈見の「食いしん坊」表現は卓越してますね。

 特に好きなのが以下の2つです。

 

○ 八奈見は無造作に箸を突っ込む。塊のまま持ち上がったチャンプルーに、一瞬迷ってから大口でかぶりついた。(P34)

○「じゃ、これもらうね」

 「こういう時におにぎり持っていく人、初めて見たな」(P36)

 

食いしん坊描写じゃないですが、ここも好きです。

 

○「コンサルタント……それって、コンサルってことだよね」

 「なんで略して言い直したか分からないけど、その通りだ」

  八奈見は満足げに頷くと、髪をかき上げる。

 

 書き写してて、にやにやしますね。

 

 4巻が楽しみですね。西川君に期待!

 

 最後に、これまで書いてきた雑文とかのリンクです。お粗末ですが、よろしければご笑覧ください。

 

『負けヒロインが多すぎる!1』感想・考察

https://victor-kabayaki.hatenablog.com/entry/2021/09/23/073305

 

『負けヒロインが多すぎる!1』酒飲み実況

https://twitter.com/victor_sugawara/status/1439865566672523269?s=20&t=wIlK5Vko2iEbDAWYHihKiQ

 

『負けヒロインが多すぎる!2』酒飲み実況

https://twitter.com/victor_sugawara/status/1464897118619852803?s=20&t=wIlK5Vko2iEbDAWYHihKiQ

 

【ラノベレビュー】『いでおろーぐ!』(電撃文庫)

いでおろーぐ!』は2015年に発表された作品です。

リア充爆発しろ」で非モテ革命を起こすだけの小説かと思いきや、とんでもない。

人間が実は地球を滅ぼすために作られた存在だというSF設定により、「リア充爆発しろ」が「セカイ系」と結びつき、(この作品発表から数年後に日本でもブームになる)反出生主義的想像力を持ちながら、それでいて反出生主義にも反=反出生主義にも加担しないラストを描き切った野心作です。

テン年代に発表されたライトノベル作品の中でも、1,2を争う傑作です。

 

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いでおろーぐ! (電撃文庫) 1巻 書影


以下、本文。

 

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 「革命的非モテ同盟(通称:革非同)」という団体をご存じだろうか?

 名前を聞いたことはなくとも、クリスマスに「リア充爆発しろ」と騒いで回る集団だと聞けば、ピンとくるかもしれない。「リア充」とは交友関係、男女関係、生活環境などが満たされている様子、およびその人々を大まかにさす言葉だが、定義は難しく、ネット(特に2ちゃんねるなどの掲示板やtwitterをはじめとするSNS群)で様々な使い方がされる中で意味が醸成されたという、典型的なネットスラングである。面白いのは「リア充」という言葉が当の本人(リア充)たちではなく、「非リア充リア充ではない)」人が「リア充」へ呪詛を投げかける際に多く使われるということである。「リア充爆発しろ」とはその象徴的な言葉だ。

 

 そんなネット上の「非リア充」たちはスマートモブ(匿名性の高いネット環境で生み出され、特有の集団心理によって従来のメディアでは考えられない新しい集団)として極めて大きな発言権を持ち、「リア充爆発しろ」という言葉は、いまではネットの枠を超えてリアルの場でも耳にするようになった。「革命的非モテ同盟」とは、そうしたスマートモブが渋谷駅前などの「リアル(ネットに対する現実であり、リア充の本拠地)」で自らの主張を行う集団のことである。それまではただ個別的に己の不遇を嘆くだけだった「非リア」たちが結成したこの集団の活動は、社会論としてもネットメディア論としても興味深い。

 

 第21回(2015年)電撃小説大賞の銀賞受賞作『いでおろーぐ!』は高校を舞台にとした非モテ結社小説だ。リア充を呪いながら鬱屈した毎日を過ごしている主人公・高砂は、高1のクリスマスの夜、渋谷駅で拡声器を片手に演説する一人の少女を目撃する。

自己批判せよ! 恋愛至上主義の泥濘から抜け出す方法はただひとつ、自らの精神に入り込んだ幻想を、自己を批判することを通して見つめ叩きだすしかない。その手助けをするために、私は愚昧なる恋愛信奉者諸君らを、ここで教導しようと思う!――」

 反恋愛主義青年同盟部を名乗る領家薫に狂気を感じながらも、高砂は薫の言葉、そして立ち振る舞いに魅了され、反恋愛主義青年同盟部への入部を決意する。面白いのは、その「恋愛撲滅」の主張が、確固たる思想によって下支えされている点だ。

彼女によれば、人類とは地球外生命体が地球を滅ぼす目的で作った存在である。人間の欲望が引き起こす生態系の崩壊や環境破壊を見よ。人類はこの地球にとって明確な癌である。「宇宙船地球号」の一員たる我々は、唯一欲望を超克し、繁殖行動を永久に停止することによってのみ、自身が犯し続ける罪に歯止めをかけられるのだ――この論理は突飛ではあるのだが、「クリスマスをカップルで楽しまないといけないという雰囲気がモテない人々は苦しめている」と主張する革命的非モテ同盟よりもはるかに硬質な意志が感じられないか?

 

 さて、高砂と薫の出会いはラブコメに欠かせない「ボーイミーツガール」の一場面であるのだが、この出会いはすぐさま読者に物語の終着点を予想させてしまう。というのも、この二人は出会った瞬間から恋愛関係になりえない構造的矛盾をはらんでいるからだ。説明するまでもない、高砂は薫の堂々とした演説姿に惹かれるのだが、彼女が謳うのは恋愛の撲滅なのだ。このことを恋愛小説における「障害」に見立てるならば、「恋愛撲滅をうたっていたはずの男女がその活動を続ける中で次第に惹かれあい、二人は非リア充という殻を破り、真実の愛を知ってリア充へと脱皮する」という物語が自然と引き出されそうだ。それはそれで一つの物語だ。しかし非リアがリア充になるハッピーエンドとは、非リアがどんなに高邁な思想を語ったところで所詮それはリア充へのひがみなのであり、非リア充リア充の前に屈服するしかないという当たり前の考えに追従することでしかない。

 

 ところが、物語は思わぬ展開を見せる。人間は地球を滅ぼすために生み出された存在であるということが真実であると、高砂は人類を創った張本人「神」から直接明かされるのだ。

 女児の姿をした「神」は、偶然ながら人類にとって禁忌である知に到達してしまった薫を堕落させるべく、薫が恋に目覚めるよう働きかけろという支持を高砂に下す。

 こうなると、物語は突然セカイ系の様相を帯びてくる。つまり、高砂が薫との恋愛を志向すれば、それは「好きな人と添い遂げられるなら地球を滅ぼしても構わない」という思想の表明になるし、逆に地球を守ろうとすれば薫とは決して恋愛してはならないだろう。世界or愛する人……セカイ系文学の究極課題を突き付けられる高砂だがしかし、そんな事情を知らない薫は徐々に高砂への思いを募らせる。薫は愛撲滅思想を抱くに至った親との確執、及びトラウマが明かされる場面が挟み込まれながら、一人孤独に反恋愛主義青年同盟部として世界を闘っていた薫にとって高砂が心の依り所となっていくさまが描かれる。

 

 そして物語のラスト、反恋愛主義青年同盟部はバレンタインデー当日にチョコレートを学内に一切持ち込ませない学園封鎖作戦(バレンタイン粉砕闘争)を決行するのだが、薫の宿敵である生徒会長(薫曰く大性翼賛会・会長)の妨害にあい、作戦はあえなく失敗、部はアジトもろとも瓦解の危機を迎える。万事休すの薫は、二人きりの部室で高砂についに自分の思いを打ち明けてしまう。いうまでもなく、それは非リア充リア充の前に敗北することの象徴だ。しかし高砂はそんな結末を認めない。

 

 俺の心は、とっくに決まっていたのだ。

 領家とともに、この革命を戦い抜く。

 腑抜けた、恋愛に溺れる彼女の顔なんて見ていたくなかった。俺が見惚れたのは、意味不明な理論に基づいて革命の成就に向けて孤軍奮闘する、鬼気迫った危うい美しさだった。

 (中略)

 彼女の、その突拍子もない思想は、女児の出現によって実は真実であるということが明らかになった。それは運動の初期の頃、俺を女児と領家との間に板挟みにし、苦しめた。

 しかし、それが本当に正しいということは、もはや俺にとって重要ではなくなっていた。ただ俺の体内にあるのは、仲間とともに革命を戦いぬく、それだけなのだ。

 だからこそ、俺はもう怯むことはない。

 確信を持って、女児を裏切ろう。彼女の目論見を粉々に粉砕してやろう。

 たとえ俺が、その咎で彼女に処刑されようとも、必ずや他の仲間が俺の分まで戦ってくれるだろう。俺はそのことを、幸福に思った。

 

 本文から長々と引用したのはこの一説に作品が凝縮されているからだ。この引用を手掛かりに、作品の考察をさらに進めたい。

 

 ところで、小説をとりあえず理解しようと試みるとき、ジャンル論は有効な手段だが、『いでおろーぐ!』という作品をジャンルに落とし込もうとするとき、我々の思考は中断を余儀なくされる。この小説が「セカイ系」の姿を借りた恋愛小説のように読めることはすでに述べたが、一方で革命思想にあやかったバトル小説としても読めることに注意しなくてはならない。それは言うまでもなくリア充VS非リア充の戦いだ。先に引用した一説が感動的なのは、並行して進んでいた二つの物語がこの瞬間に接触し、スパークを起こしているからだ。薫の告白を受け入れることは、恋愛至上主義に与し、概念としてのリア充が勝利すること、端的に言って革命の挫折を意味する。他方、薫の告白を蹴ることは、個の欲望を超越し人類を犠牲に地球を存続させるという遠大な思想の表明であり、同時に同志たる非リア充への激励となる。〈キミ-世界〉・〈リア充・非リア充〉という二つの対立軸は、「薫の告白を受けるか否か」という一つの問いに集約される。つまり、薫が高砂に告白するとき、それは同時に『いでおろーぐ!』という小説に内在する「セカイ系」と「革命系」の二つの物語にどのような結末を与えるのかという問いとイコールなのだ。

 

 ああしかし、これほど大きな意味をはらんだ薫の決死の問いかけへの高砂の返答を読むとき、上に記したような問いの立て方がいかに陳腐なものであるかということをまざまざと見せつけられる。高砂にとって、〈セカイ系〉も〈革命系〉も大きな問題ではない。「腑抜けた、恋愛に溺れる彼女の顔なんて見ていたくなかった。俺が見惚れたのは、意味不明な理論に基づいて革命の成就に向けて孤軍奮闘する、鬼気迫った危うい美しさだった」――高砂にとって世界がどちらに転ぼうが、リア充と非リア充のどちらが勝利しようが構わない。彼を動かすのは初めて目撃した彼女の気高さでしかない。この恋愛とも友愛とも言えぬ、共闘の士の間にだけ立ち上る、言い知れぬ蠕動は〈リア充―非リア充〉などという卑俗な対比からは決して生まれえない。告白を受け入れてもらうことでトラウマが解き絆される、などというふやけた愉楽では得られず、ただどうしようもなく浴びせられる力強いまなざし。実はそれこそ、高砂が薫の姿を初めて目にしたとき受け取ったエネルギーではなかったか? その逆説の前で、薫はもはや笑うしかない。

 

 ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタと、笑っていた。笑いすぎて、その目からは涙がこぼれていた。

 その不気味な笑い声に、工作が再開されていた廊下が再度、水を打ったように静まり返った。

 もう授業中だ。部室棟からは人の声が消えている。そんな静寂の中で、領家の狂ったような笑い声だけが響いていた。

 (中略)

 変な笑いと涙で、顔はぐちゃぐちゃだった。

 だが、目にはあの日の炯炯とした光が、舞い戻っていた。涙のしずくをはらんだその長いまつげが、まばたきに従って閃いた――鳥肌が立った。

 

 冒頭、渋谷駅で孤軍奮闘していた彼女の力強い眼差しは、物語のクライマックスで復活する。しかしその「目」は、高砂との出会いによってより力強さを増している。

 渋谷駅前の彼女の「目」と静かな部室で高砂に向けられた「目」の、同じように力強くありながら、かつ異なる二つの眼差し。冒頭とクライマックスに現れる少女の「目」の差こそ、『いでおろーぐ!』という小説なのではないか。

【ラノベ&アニメレビュー】異能バトルは日常系の中で(GA文庫)

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異能バトルは日常系の中で 第1巻 書影

 時間や空間を操る力――そんな異能に目覚めたとある高校の文芸部員たちが、お決まりのバトルをするでもなく、ただただ平穏な日常を過ごすというラブコメ作品。

 

 アニメ版は原作で主人公が乱発した引用ネタをカットするなど、変更点は多いものの、ヒロインのひとり・櫛川鳩子を演じた声優の早見沙織が140秒に及ぶ長台詞を披露したことをはじめ、アニメならではと言える演出を取り入れた展開が目を引く。

 

 また、強大な異能を手にしたはずの少年少女たちが、ありふれた思春期の葛藤や人間関係のトラブルに悩みながらも生きていこうとする様子は、アニメ版でよりストレートに描かれていた点も特徴的だ。

 

 「異能は人を傷つけるための力でも、誰かを幸せにするための力でもなく、ただ最高にかっこよくて、ただかっこいいだけでいい」――異能に最大限の賛辞を送りつつ、同時に日常の尊さを謳う主人公の言葉は、原作に劣らないアニメ版の魅力を見事に代弁している。

【ラノベレビュー】終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?(角川スニーカー文庫)

 

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終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか? (角川スニーカー文庫) 第1巻書影

 未知の怪物「獣」によって多くの種族が滅ぼされた後の世界。生き残ったものたちは地上を離れ、空に浮かぶ群島に暮らしている。青年ヴィレム・クメシュが、数少ない人エムネトワイト類の生き残りとして数百年の石化の眠りから目覚めたところから物語は始まる。

 

 準クアシ・ブレイブ勇者として地上世界を守れず、ただひとり生き残ってしまった自責の念を抱えながら無為の生活を送っていたヴィレムは、武器倉庫の管理者として寂れた浮遊島に赴任することになる。しかし、施設にいるのは幼い少女ばかり。間もなく彼は、その少女たちこそが人間に代わって「獣」と戦う武器「黄レプラ金妖カーン精」であると知ることになる。

 

 準勇者の力を失ったヴィレムはもはや自分では「獣」と戦えず、未熟な少女たちを絶望的な戦いに送り出すことしかできない。世界を救えなかったヴィレムは、いうなればバッドエンド後の世界に一人取り残された存在だ。「黄金妖精」の管理者として少女を戦いに送り込むという、死よりも過酷な運命を負わされている。しかも少女たちには戦いから生還してもなお残酷な運命が待ち受けており、彼女たちはその運命を受け入れている。

 

 そんな悲劇的な結末しか残されていないような状況に、ヴィレムははじめ少女たちとの距離をはかりかねている。しかし、死にゆく定めのなかで日常をけなげに生き、小さな幸福を見いだそうとする少女たちに、ヴィレムは真正面から向き合おうと決意する。

 

 『このライトノベルがすごい!2016』(宝島社、2016年)の新作二位に輝くなど、各所で話題になった本作だが、実は売り上げが伸び悩んだことから第三巻の発売は危ぶまれていた。ところが公式ウェブサイトでのアンケートで続巻待望の声が多数寄せられたこともあり、シリーズの継続が決定したという稀有な作品だ。

 

 シリーズ続行を願う読者の気持ちは痛切にわかる。

 なぜなら、次巻が出ることでしか彼女たち妖精兵は救われないのだから。

【ラノベレビュー】現実でラブコメできないとだれが決めた?2

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現実でラブコメできないとだれが決めた? (ガガガ文庫)  第2巻書影


『現実でラブコメできないとだれが決めた?』(以下、「ラブだめ」)2巻を読みましたので、感想を書きます。

ただし、1巻のレビュー同様、詳細な登場人物紹介やあらすじ紹介はしない(そのくせ不用意にネタバレはする)ので、ご了承ください。

(1巻のレビューはこちら)

→ https://victor-kabayaki.hatenablog.com/entry/2021/09/22/175138

 

 主人公・長坂耕平と上野原彩乃ペアはラブコメ創造計画の領域をグループからクラスへ拡大すべく、Q-U―Lなる新たな分析ツールも用いながら「集団ラブコメ適正」数値をあげようと、「地域清掃ボランティアイベント」の成功に向けて奮闘します。

1巻が長坂と上野原の作戦会議パートを中心に描かれていたのに比べると、2巻は自由時間のクラス内バレーボール対決など、多彩な登場人物通しのやりとりが賑やかな印象です。

そして、2巻のヒロインは、長坂に敵対し、クラスの輪を乱し、一連のイベントを邪魔し、集団ラブコメ適正低下の主要因である、勝沼あゆみ。

物語のクライマックスは、地域清掃ボランティアイベントを通しての勝沼あゆみの「ヒロイン化」であり、そこにいたる過程は1巻同様ミステリー仕立てになっていて読みごたえがあります。

勝沼は1巻から読者に悪印象を与える描かれ方をされていますが、最後にはきちんとヒロインになっているのが見事です。

個人的には、各巻で一人ひとりヒロインを「攻略(?)」していくゲーム的な展開はシリーズもののライトノベルとして安定するし、不良×ポンコツ=かわいいなヒロインがたまらないので、勝沼あゆみの次巻以降の活躍を見たいです。

 

1巻も2巻も、ヒロインがピンチに陥って、最後に長坂が大逆転させるという王道な物語展開ではありますが、1巻ラストの上野原と清里芽衣のやりとりを知っている読者にとって、2巻は1巻に比べ、ほどよい緊張感が漂っています。

 そして、2巻のラストでは清里が長坂の計画に徹底抗戦することが宣言され、挿絵の効果もあいまって、読後にかなりインパクトを残します。

 

 さて、清里が1巻と2巻のラストで見せる普通至上主義はなんなのでしょう。

本当は1巻のレビューで触れたかったのですが、長坂の上野原への「告白」が小説の構造としてあまりに見事だったので、その考察に終始してしまいました。

 とはいえ、清里の考えは、読者が考察できるほどに語られておらず、たぶん過去に何か個人的な体験とかがあってそのような思想にいたっているのでしょうが、よくわかりません。

 ただ、長坂の計画に反対の立場であることはわかります。

 

いったん、基本的なところに戻って考えてみましょう。

私の整理では、「ラブだめ」は以下のような物語だと言えます。

 

「ラブコメ」を現実で創造しようとする長坂の計画は、現実の様々な問題によりエラーを起こしてしまう。しかし、その計画のエラーを修正する過程がラブコメになっている。

 

(↑簡単に言うと「青い鳥」的なわけですが、物語が高いレベルで構造化されているので、作品の完成度は極めて高いです)

清里的には、長坂はうまく計画のエラーを修正して、個々の問題に対しては最善にたどり着くこともあるが、計画それ自体は断固否定すべきもの、といった感じなのでしょう。

 

長坂の計画は「ラブコメを作ろう」なのですから、清里による長坂の計画の否定は、(その直接的な意図がラブコメ批判かどうかはともかく、)ラブコメの否定になるわけです。

となると、「ラブだめ」という作品は、それ自体これ以上ないくらい、どうしようもなく「ラブコメ」であるにもかかわらず、作品中の人物が「ラブコメ」(=ラブだめという作品)を真っ向から否定している面白い構造になるわけです。

清里が長坂の計画のどの部分を具体的に批判しようとしているのかわかりませんが、いずれにしても、この作品をスリリングにしているのは、作品が持つこの構造的危険性にあります。

これから物語が進んでいくにつれて、清里の動きは具体的に明らかになるし、物語はいっそう面白くなると思うので、期待です。

 

ただ、最後に一つだけ言っておくと、確かに現実にラブコメなんて創造なんて理想主義、実現するはずがないのですが、しかし、「みんなが普通の生活を送るのを維持する」という清里の理想の方が、より実現不可能な理想でしょう。

 

清里VS.長坂がどうなるのか、期待です。

【ラノベレビュー】リア王!

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リア王! (HJ文庫) 第1巻書影

 

 またまた過去作からの投稿ですが。「リア充」爆発しろ、ではなく、「リア充という制度」こそ爆発させた、素晴らしい作品です。

 

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 高校生にとって学校は世界のすべてであるが、その学校を貫くのは「リア充」という制度である。そうであるなら高校生にとって、自分が「リア充」か否かが世界のすべてを左右する事になる。『リア王!』は、周囲からリア充と思われていながら本人らは「自分はリア充だ」という意識を抱いていない凰花・深月の2人の少女を描くことで、既存の「リア充」概念に疑問を投げかける。一見リア充に見える二人の少女のリア充意識を妨げているものは何か。凰花は趣味を公に出来ないことに苦しみ、深月は自分の本性を表に出せないことに苦しんでいる。どちらも「自由」の問題といっていい。作中で「リア充チェックシート」がリア充か否かの判断基準として用いられているのに象徴的なように、リア充という制度は条件羅列的で束縛的な枠組みだ。このことは凰花が無理にステレオタイプのデートを設計しようとする姿にもよく表れている。

 さて、そんな「リア充」という擬制を破壊することが本作の中心的テーマであるが、その役を担い、結果として二人の少女を救うのが主人公・御門帝人である。帝人にはリア充という抑圧的な制度を打ち砕くと言う崇高な理想を掲げる良心的な人物ではない。そんな優等生的な人物よりはるかに魅力的で、彼の友人である江代堂曰く、厚顔無恥で傲岸不遜で唯我独尊。ただ、このような男が良好な対人関係を絶対とするリア充の制度に与するはずがなく、これを真っ向から否定していく。彼はリア充の王である「リア王」を目指す。

 一巻では明確にリア充概念をぶっ壊す様子は描かれず、作品のテーマが冠水されたとは言えないし、地の文の語りにおいては荒が目立つところもある。しかし、主人公とヒロインの掛け合いは軽妙で飽きさせないし、なにより魅力的な主人公が本作の最大の強みだろう。彼らのやり取りだけでなく、学校全体を巻き込んでどのような事件を起こしてくれるのか、次刊を読ませたくなる良作だ。