【ラノベレビュー】『いでおろーぐ!』(電撃文庫)

いでおろーぐ!』は2015年に発表された作品です。

リア充爆発しろ」で非モテ革命を起こすだけの小説かと思いきや、とんでもない。

人間が実は地球を滅ぼすために作られた存在だというSF設定により、「リア充爆発しろ」が「セカイ系」と結びつき、(この作品発表から数年後に日本でもブームになる)反出生主義的想像力を持ちながら、それでいて反出生主義にも反=反出生主義にも加担しないラストを描き切った野心作です。

テン年代に発表されたライトノベル作品の中でも、1,2を争う傑作です。

 

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いでおろーぐ! (電撃文庫) 1巻 書影


以下、本文。

 

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 「革命的非モテ同盟(通称:革非同)」という団体をご存じだろうか?

 名前を聞いたことはなくとも、クリスマスに「リア充爆発しろ」と騒いで回る集団だと聞けば、ピンとくるかもしれない。「リア充」とは交友関係、男女関係、生活環境などが満たされている様子、およびその人々を大まかにさす言葉だが、定義は難しく、ネット(特に2ちゃんねるなどの掲示板やtwitterをはじめとするSNS群)で様々な使い方がされる中で意味が醸成されたという、典型的なネットスラングである。面白いのは「リア充」という言葉が当の本人(リア充)たちではなく、「非リア充リア充ではない)」人が「リア充」へ呪詛を投げかける際に多く使われるということである。「リア充爆発しろ」とはその象徴的な言葉だ。

 

 そんなネット上の「非リア充」たちはスマートモブ(匿名性の高いネット環境で生み出され、特有の集団心理によって従来のメディアでは考えられない新しい集団)として極めて大きな発言権を持ち、「リア充爆発しろ」という言葉は、いまではネットの枠を超えてリアルの場でも耳にするようになった。「革命的非モテ同盟」とは、そうしたスマートモブが渋谷駅前などの「リアル(ネットに対する現実であり、リア充の本拠地)」で自らの主張を行う集団のことである。それまではただ個別的に己の不遇を嘆くだけだった「非リア」たちが結成したこの集団の活動は、社会論としてもネットメディア論としても興味深い。

 

 第21回(2015年)電撃小説大賞の銀賞受賞作『いでおろーぐ!』は高校を舞台にとした非モテ結社小説だ。リア充を呪いながら鬱屈した毎日を過ごしている主人公・高砂は、高1のクリスマスの夜、渋谷駅で拡声器を片手に演説する一人の少女を目撃する。

自己批判せよ! 恋愛至上主義の泥濘から抜け出す方法はただひとつ、自らの精神に入り込んだ幻想を、自己を批判することを通して見つめ叩きだすしかない。その手助けをするために、私は愚昧なる恋愛信奉者諸君らを、ここで教導しようと思う!――」

 反恋愛主義青年同盟部を名乗る領家薫に狂気を感じながらも、高砂は薫の言葉、そして立ち振る舞いに魅了され、反恋愛主義青年同盟部への入部を決意する。面白いのは、その「恋愛撲滅」の主張が、確固たる思想によって下支えされている点だ。

彼女によれば、人類とは地球外生命体が地球を滅ぼす目的で作った存在である。人間の欲望が引き起こす生態系の崩壊や環境破壊を見よ。人類はこの地球にとって明確な癌である。「宇宙船地球号」の一員たる我々は、唯一欲望を超克し、繁殖行動を永久に停止することによってのみ、自身が犯し続ける罪に歯止めをかけられるのだ――この論理は突飛ではあるのだが、「クリスマスをカップルで楽しまないといけないという雰囲気がモテない人々は苦しめている」と主張する革命的非モテ同盟よりもはるかに硬質な意志が感じられないか?

 

 さて、高砂と薫の出会いはラブコメに欠かせない「ボーイミーツガール」の一場面であるのだが、この出会いはすぐさま読者に物語の終着点を予想させてしまう。というのも、この二人は出会った瞬間から恋愛関係になりえない構造的矛盾をはらんでいるからだ。説明するまでもない、高砂は薫の堂々とした演説姿に惹かれるのだが、彼女が謳うのは恋愛の撲滅なのだ。このことを恋愛小説における「障害」に見立てるならば、「恋愛撲滅をうたっていたはずの男女がその活動を続ける中で次第に惹かれあい、二人は非リア充という殻を破り、真実の愛を知ってリア充へと脱皮する」という物語が自然と引き出されそうだ。それはそれで一つの物語だ。しかし非リアがリア充になるハッピーエンドとは、非リアがどんなに高邁な思想を語ったところで所詮それはリア充へのひがみなのであり、非リア充リア充の前に屈服するしかないという当たり前の考えに追従することでしかない。

 

 ところが、物語は思わぬ展開を見せる。人間は地球を滅ぼすために生み出された存在であるということが真実であると、高砂は人類を創った張本人「神」から直接明かされるのだ。

 女児の姿をした「神」は、偶然ながら人類にとって禁忌である知に到達してしまった薫を堕落させるべく、薫が恋に目覚めるよう働きかけろという支持を高砂に下す。

 こうなると、物語は突然セカイ系の様相を帯びてくる。つまり、高砂が薫との恋愛を志向すれば、それは「好きな人と添い遂げられるなら地球を滅ぼしても構わない」という思想の表明になるし、逆に地球を守ろうとすれば薫とは決して恋愛してはならないだろう。世界or愛する人……セカイ系文学の究極課題を突き付けられる高砂だがしかし、そんな事情を知らない薫は徐々に高砂への思いを募らせる。薫は愛撲滅思想を抱くに至った親との確執、及びトラウマが明かされる場面が挟み込まれながら、一人孤独に反恋愛主義青年同盟部として世界を闘っていた薫にとって高砂が心の依り所となっていくさまが描かれる。

 

 そして物語のラスト、反恋愛主義青年同盟部はバレンタインデー当日にチョコレートを学内に一切持ち込ませない学園封鎖作戦(バレンタイン粉砕闘争)を決行するのだが、薫の宿敵である生徒会長(薫曰く大性翼賛会・会長)の妨害にあい、作戦はあえなく失敗、部はアジトもろとも瓦解の危機を迎える。万事休すの薫は、二人きりの部室で高砂についに自分の思いを打ち明けてしまう。いうまでもなく、それは非リア充リア充の前に敗北することの象徴だ。しかし高砂はそんな結末を認めない。

 

 俺の心は、とっくに決まっていたのだ。

 領家とともに、この革命を戦い抜く。

 腑抜けた、恋愛に溺れる彼女の顔なんて見ていたくなかった。俺が見惚れたのは、意味不明な理論に基づいて革命の成就に向けて孤軍奮闘する、鬼気迫った危うい美しさだった。

 (中略)

 彼女の、その突拍子もない思想は、女児の出現によって実は真実であるということが明らかになった。それは運動の初期の頃、俺を女児と領家との間に板挟みにし、苦しめた。

 しかし、それが本当に正しいということは、もはや俺にとって重要ではなくなっていた。ただ俺の体内にあるのは、仲間とともに革命を戦いぬく、それだけなのだ。

 だからこそ、俺はもう怯むことはない。

 確信を持って、女児を裏切ろう。彼女の目論見を粉々に粉砕してやろう。

 たとえ俺が、その咎で彼女に処刑されようとも、必ずや他の仲間が俺の分まで戦ってくれるだろう。俺はそのことを、幸福に思った。

 

 本文から長々と引用したのはこの一説に作品が凝縮されているからだ。この引用を手掛かりに、作品の考察をさらに進めたい。

 

 ところで、小説をとりあえず理解しようと試みるとき、ジャンル論は有効な手段だが、『いでおろーぐ!』という作品をジャンルに落とし込もうとするとき、我々の思考は中断を余儀なくされる。この小説が「セカイ系」の姿を借りた恋愛小説のように読めることはすでに述べたが、一方で革命思想にあやかったバトル小説としても読めることに注意しなくてはならない。それは言うまでもなくリア充VS非リア充の戦いだ。先に引用した一説が感動的なのは、並行して進んでいた二つの物語がこの瞬間に接触し、スパークを起こしているからだ。薫の告白を受け入れることは、恋愛至上主義に与し、概念としてのリア充が勝利すること、端的に言って革命の挫折を意味する。他方、薫の告白を蹴ることは、個の欲望を超越し人類を犠牲に地球を存続させるという遠大な思想の表明であり、同時に同志たる非リア充への激励となる。〈キミ-世界〉・〈リア充・非リア充〉という二つの対立軸は、「薫の告白を受けるか否か」という一つの問いに集約される。つまり、薫が高砂に告白するとき、それは同時に『いでおろーぐ!』という小説に内在する「セカイ系」と「革命系」の二つの物語にどのような結末を与えるのかという問いとイコールなのだ。

 

 ああしかし、これほど大きな意味をはらんだ薫の決死の問いかけへの高砂の返答を読むとき、上に記したような問いの立て方がいかに陳腐なものであるかということをまざまざと見せつけられる。高砂にとって、〈セカイ系〉も〈革命系〉も大きな問題ではない。「腑抜けた、恋愛に溺れる彼女の顔なんて見ていたくなかった。俺が見惚れたのは、意味不明な理論に基づいて革命の成就に向けて孤軍奮闘する、鬼気迫った危うい美しさだった」――高砂にとって世界がどちらに転ぼうが、リア充と非リア充のどちらが勝利しようが構わない。彼を動かすのは初めて目撃した彼女の気高さでしかない。この恋愛とも友愛とも言えぬ、共闘の士の間にだけ立ち上る、言い知れぬ蠕動は〈リア充―非リア充〉などという卑俗な対比からは決して生まれえない。告白を受け入れてもらうことでトラウマが解き絆される、などというふやけた愉楽では得られず、ただどうしようもなく浴びせられる力強いまなざし。実はそれこそ、高砂が薫の姿を初めて目にしたとき受け取ったエネルギーではなかったか? その逆説の前で、薫はもはや笑うしかない。

 

 ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタと、笑っていた。笑いすぎて、その目からは涙がこぼれていた。

 その不気味な笑い声に、工作が再開されていた廊下が再度、水を打ったように静まり返った。

 もう授業中だ。部室棟からは人の声が消えている。そんな静寂の中で、領家の狂ったような笑い声だけが響いていた。

 (中略)

 変な笑いと涙で、顔はぐちゃぐちゃだった。

 だが、目にはあの日の炯炯とした光が、舞い戻っていた。涙のしずくをはらんだその長いまつげが、まばたきに従って閃いた――鳥肌が立った。

 

 冒頭、渋谷駅で孤軍奮闘していた彼女の力強い眼差しは、物語のクライマックスで復活する。しかしその「目」は、高砂との出会いによってより力強さを増している。

 渋谷駅前の彼女の「目」と静かな部室で高砂に向けられた「目」の、同じように力強くありながら、かつ異なる二つの眼差し。冒頭とクライマックスに現れる少女の「目」の差こそ、『いでおろーぐ!』という小説なのではないか。