【ラノベレビュー】インテリぶる推理少女とハメたいせんせい

 

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インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show.Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫) 第1巻書影

今回も過去に書いた文章から投稿します。HJ文庫と聞いてこの作品を思い浮かべる人も多いはず。

 

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人間は無作為にテキトウに動くのだ、と主張する文芸部顧問になった「せんせい」と、この世の全てが理屈通りに動いている、と信じて疑わない中学生の文学少女「比良坂れい」の2人が孤島を舞台に繰り広げる壮絶な頭脳戦と恋愛模様(文庫裏表紙より)――こう書くとなんてことないライトノベルのようであるが、騙されてはいけない。2013年に発表されたライトノベルとしては最大の問題作で、原題は「せんせいは何故女子中学生に○×☆※をぶち込み続けるのか?」。この作品を問題作たらしめているのは以下の引用に象徴的だ。

強姦していくならばその女子中学生たちの人間ドラマを描いた後で、というのがセオリーなのだろうけれど(キャラ紹介→強姦→後日談という一連の流れ)、前戯にはあまり興味がないのでそういうのは三行ぐらいで済ませたかった」

実際、少女たちが次々に犯されていくことが事実としてはわかるのだが、そういった描写はなく、そこに一切の意味も与えられない。「せんせい」は先ほどのあらすじのように「無作為にテキトウに」動くからだ。しかも本作のヒロインである比良坂さんは、自分が強姦されかけても、クラスメートが強姦されても、そのクラスメートが妊娠して恋人が訴えに来ても、ろくでもない論理を次々と並べ立てて、主人公であるせんせいを擁護してみせる。それが本作の「頭脳戦」であり「恋愛模様」であり、物語の骨格だ。そうして「せんせい」の犯罪は露見しない。

一切の描写が省かれた事件の提示と、饒舌でときにぺダンティックな語り、倫理観の欠落した主人公。良識のある読者なら途中で投げ出しても仕方ないが、物語のラストでは一応メタミステリーと呼べなくもない仕掛けもある。プロットも案外よく考えて作られている。

 

本作が発表されたのは2013年3月。作者の第二作を待っている読者は私以外にも多いはずだ。

【ラノベビュー】『おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ!』

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おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ! 第1巻書影

以下の文章は10年近く前――「オタリア」発売直後に書いたものなので、ライトノベルにおける「リア充」の描かれ方へのとらえ方が少し古びていると感じられるかもしれません。

ただし、作品分析自体は古くなっていないと思うので、掲載します。(創作論的な側面が強いです)

 

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 現在のライトノベルでは、身勝手に想定された「リア充」像が様々な作品で繰り返し描かれ、特に「ギャル」はリア充の中でも特に過剰に拒絶されている。そうした閉鎖的なライトノベルの現状で、「ギャル」を魅力的に描いた『おまえをオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ!』は注目に値する。

 

 この作品で、ヒロイン・恋ヶ崎桃はテンプレートな没個性リア充ではなく、きちんと自分の価値観を表明する。例えば、恋ヶ崎は主人公・柏田直輝との模擬デートで柏田の振る舞いを採点するが、彼女の言葉には読者を納得させるだけのリアリティがある。

また、恋ヶ崎の言葉は時に辛辣だが、「ギャル」特有の刺刺しさは率直さと裏表であり、秋葉原で柏田が恋ヶ崎の買い物につきあった際に、彼女が「ありがとね」と素直に言葉に出せることを「ギャル萌え」と呼ぶことに躊躇いは必要ないだろう。

 

 ただ、作品の趣向は素晴らしいが、表現や構成のレベルで疑問がないわけではない。

まず、恋ヶ崎は男性が苦手だということが早々に明らかにされるが、せっかくのギャップ萌えポイントを簡単に明かしてしまうのはもったいない。

少し後に友だち数人とカラオケに行くシーンがあり、さかんにスキンシップをしてくる男を恋ヶ崎が拒絶する場面があるが、そこでこの意外な一面を初めて明らかにする方が読者を惹きつけただろう。

 

また、さらにその後のシーンで、同人誌即売会の会場で<恋ヶ崎はビッチだ>という鈴木爽太(恋ヶ崎の想い人)の誤解を柏田が解いたことが、柏田本人の口から恋ヶ崎に説明されるのだが、柏田の口から直接伝えられるのではなく、後から偶然知ってしまうといった展開のほうが感動的だろう。

 

これは、一般論としてそうである以上に、この作品の演出的な観点からそう言える。

 

柏田には長谷川翠という想い人が彼女におり、柏田は彼女の見えないところで彼女の学級委員の仕事を手伝うのだが、せっかくの好意も彼女に伝わらない。柏田はそれで満足してしまうのだが、恋ヶ崎はそんな柏田の草食っぷりを喝破するエピソードがある。

 

このエピソードを踏まえたうえで、同人誌即売会のシーンに戻って、恋ヶ崎が受けた誤解を解いたのが柏田であるという事実が、柏田以外の人物から明かされたとしよう。

すると、同人誌即売会のシーンは違った意味を持ってくる。

つまり、柏田が長谷川に向けた「気付かれない優しさ」――それを気づかれなければ意味がないと恋ヶ崎はいったが、その「気付かれない優しさ」が長谷川だけではなく自分にも向けられていたのだと恋ヶ崎が気づく感動的なシーンとなるのだ。

このようにストーリーに再帰性を持ち込めば、また違った情緒をもった作品となっただろう。

 

 しかし、ここまで書いてきて論をひっくり返すようだが、この作品にとっては、そのような回りくどい展開はいらないのかもしれない。

そう思わせるほどに、柏田と恋ヶ崎には、ただただ応援したくなるような純真さがあるのだから。

【ラノベレビュー】『千歳くんはラムネ瓶のなか』

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千歳くんはラムネ瓶のなか (ガガガ文庫)  1巻書影


※このレビューでは、あらすじの紹介もしていなければ、面白かった、などの感想もありません、一般に使われる意味での「考察」でもありません。『千歳くんはラムネ瓶のなか』を読んで考えたことをダダ漏らしているだけなので、ご理解ください。

 

〇前提のお話し

 

まず、最初に断っておきたいが、『千歳くんはラムネ瓶のなか』(以下、チラムネ)は、既存の青春ラブコメが暗黙の前提としてきた多くのものを意識的に覆した歴史的作品だと思うし、その点で広く読まれるべき作品であると思う。

作品の完成度も高いと思う。特に文章表現能力は目を引く。会話は抑制が聞いていながら、時につやっぽく、ウィットにも富んでいる。長年ライトノベルを読んできた立場から、この作品を応援している。

そのうえで、これから、主人公・千歳朔について考察を進めていくのだが、人によってはこのレビューを作品に対して批判的な内容だと感じるかもしれない。

しかし、私としては、その意図はないし、絶賛するにしても批判するにしても、この作品について考えるとは、千歳朔について考えることからしか始まりえないのだ。

 

まずは、この作品が第13回小学館ライトノベル大賞優秀賞を受賞した際の、浅井ラボの講評を抜粋したい。

 

問題作です。出版にありがちな惹句としてではなく、本当の問題作で、編集部でも評価が分かれ、私も評価を定めにくい作品でした。作中の無邪気な邪悪さと暴力性という暴投は、大きな誤解を招くと感じました。

 

おそらくチラムネ読者はおおよそこの講評の言わんとすることが実感できるはずである。

そして、このレビューは、浅井ラボの講評を詳細に言語化しようとする試みである。

誰もが何となく理解している(それゆえにあえて言語化せずに済ませてしまう)ことをあえて取り上げて言語化する営みに意味があるのか。

「言われてみればそうだけど、それで?」とか「知ってた」とか「それを言葉にするのは野暮だ」という感想は甘んじて受け入れる。

しかし、わかっているつもりのことでも言語化することで初めて明らかになる地平というものは必ずある。

だから、このレビューでは、なぜこの作品が「問題作」であり、「無邪気な邪悪さと暴力性」とは具体的にどのようなことなのかを、「なんとなくそう思う」ではなく、きちんと言語化してみたい。さらには、「編集部でも評価が分かれ」る作品であるにもかかわらず、このラノ1位を獲得したかも考えてみたい。

 

〇 千歳朔は何が新しいのか

 

「五組の千歳朔はヤリチン糞野郎」―学校裏サイトで叩かれながらも、藤志高校のトップカーストに君臨するリア充・千歳朔。

 

 チラムネ読者には見慣れたリード文(1巻カバー背表紙のあらすじ紹介より)であるが、この文章は読者に一定の認識を促す。

それは、この小説の主人公の新しさは、トップカーストに君臨するリア充であるという点にある、という認識である。

実際には、その認識では不十分、というより間違っていると思う。

 

 確かに、1巻ではかなり露悪的にスクールカーストを強調して見せていた(その裏には、物語の始めと終わりで朔の印象にギャップを持たせるという狙いもあったと思う)。

しかも、朔はテータスとしてリア充である(勉強できる、運動できる、モテる)だけでなく、ウィットの富んだ会話を難なくこなし、オシャレをはじめあらゆる分野について自悦を述べるだけの知識と自信があり、そしてオタク文化を受け入れる(許容するだけではなく、オタク文化の中でもハードコアな作品をきちんと読む)度量も持っている。一人暮らしで料理も完ぺきに(冷蔵庫のありもので同級生に晩御飯をふるまえる程度に)こなす。教師からも信頼を得ている。

従来のラノベ主人公は基本的にスクールカーストの下位に属していたことと比較すれば、違いは明らかである。

 しかし、こうして並べ挙げておいてなんだが、根本的に朔が新しいのは、以上のような点ではない。同じく、朔が一定の読者に対して決定的に拒絶反応を起こさせるのも、以上のような点ではない

朔の最も大きな特徴は、実力主義的(≒弱肉強食的≒強者の論理的)世界観や勧善懲悪的世界観を持っているからだと思う。

 例えば、朔が健太の部屋の窓ガラスを割るシーンなどは、見方によってはかなり独善的であり、その後健太を「更生」させていくにあたってのやり方はかなり支配的である。

浅井ラボの言う「無邪気な邪悪さと暴力性」とは、端的にこのようなあり方を指している。

あるいは、1巻でも2巻でもラストに朔は悪に対して「正義の鉄槌」を下している。バトルものならいざしらず、青春ラブコメで真正面から敵を叩きのめすのは、既存の読者には、ちょっと刺激が強い。

こうした朔のふるまいそれ自体が悪いわけではもちろんない。ある意味で、そういう決断主義的な主人公像(場合によって暴力的な振る舞いも辞さないようなあり方)自体が既存の青春ラブコメの主人公像への挑戦であるのだから。

しかし、本当に朔がこの点においてのみ新しいのであれば、そのパーソナリティに多くの共感は得られないだろう。言い方を変えると、このラノ1位には輝かなかっただろう。

 この作品が巧妙なのは(念のために言うが、褒めている)、朔が「無邪気な邪悪さと暴力性」を持ちながら、決して粗野だったり、残酷なパーソナリティとしては描かれていないということだ。

例えば、以下は地の分における朔の語りである。(2巻200頁)

 

 だけど、いま胸のなかに渦巻く感情だとか、祭りの匂いだとか人々の喧騒だとか、そういうもの全部含めたこの瞬間を切り取って永遠に保存できないことが、まったく同じ瞬間は二度と経験できないということが、どうしようもなくさみしく思えたのだ。

 

 これはある意味で感傷的で、思春期らしい情緒である。この優しさと残酷さ、それゆえの理解されなさ、不器用さみたいなものをはらんだ複雑なパーソナリティとして描いている。ただ、それは例えば「大人は判ってくれない」トリュフォー)的な若者像ではない。朔はそれよりも強く、賢く、誤らない主人公である。

 こうした主人公に感情移入できるか(許容できるか)、または憧れるか、という点で、この作品への読者の主観的評価は決定的に分かれると思う。

 そして、この作品が「このラノ」1位として評価されたことは、このような主人公像が支持されたということに他ならない。

 このような主人公像が支持される時代背景として決断主義的なもの(『ゼロ年代の想像力』)を指摘できなくもないし、そっち方向の議論のほうが「点火力」を持っているとは思うが、作品から離れたそのような議論は、私の目指すところではない。

 いずれにしても、朔の主人公としてのパーソナリティの新しさが、リア充らしさや、「無邪気な邪悪さと暴力性」だけではないことを指摘するにとどめておく。

 

〇朔が読者を惹きつける引力

 

 恋愛小説とは、押し並べて登場人物同士の関係を楽しむものである。(ほとんどすべての小説に当てはまるが、恋愛小説は特にそうである)その意味で、チラムネは言うまでもなく、恋愛小説(青春ラブコメでもどっちでもいいが)である。

 しかし、チラムネは恋愛小説として読まれると同時に、主人公・千歳朔の思想や生き様への憧れを抱かせるのではないか、と思われる。

 繰り返しになるが、これまでのラノベの主人公は基本的にスクールカーストの下位であることがほとんどであったので、主人公とヒロインの関係に憧れることはあれ、主人公自身に憧れるということはまれであった(「涼宮ハルヒの憂鬱」のキョンや、「ソードアート・オンライン」のキリトはあこがれの対象となったかもしれないが、それはやはり屈折した憧れではないかと思う。)。

 一方、朔は中高生同士が評価をしあう際の尺度のすべてにおいて完璧であるような不惑の存在である。つまり、同年代の目指すロールモデル足りえる。このようなラノベ主人公は、かつて存在しなかったと断言していい。

 つまり、この作品は主人公像が新しいということを超えて、読者が主人公に憧れを抱くという点で、ライトノベルの消費のされ方として新しいのである。

 つまり、『太陽の季節』が「太陽族」を生み出したように、チラムネをバイブルとして、現実の生き方において千歳朔であることを目指すような読者がいるのではないか、ということである。

 ただ、これは推測でしかない。私が高校を卒業したのは遠い昔なので、中高生読者のリアルな読みはわからない(なんとかして知りたいと思うが)。

もしこの読みが当たっているとすれば、いまの読者がどうしてこのような主人公像をまっすぐに目指せるのか。スクールカースト上位の者への屈折はないのか、と不思議ではある。 

問いの立て方を変えると、1巻において、読者は健太に感情移入し、健太視点で物語を読んでいるのか。それともあくまで朔の視点なのか(もちろん、それは同時にであるのだけれど。というより、それができるのが小説の本領なのだし)

もしくは、バトルものにおける俺TUEEEEが青春小説に輸入されたと安易に考えていいのか。しかし、その場合、俺TUEEEEの輸入が、コメディ調の強い作品ではなく(そちらのほうが輸入しやすいように思われる。『リア王!』という名作が存在する)、チラムネのような作品であるのはどういうことなのか、という別の問題を惹起する。

 

〇 おわりに

 これは最初に告白するべきことであったが、私はまだこの作品を2巻までしか読んでいない。なので、ここに書いたことが今後修正される余地が大いにあると思う。

 過去の名作ラノベ群を振り返ったとき、2巻までしか読まずに作品全体を語ったような批評を行うことがいかに危ういか、十分に理解しているつもりであるし、私にとって、この作品は楽しく読みつつも、同時に未だ「得体のしれないもの」でもある。

 それでも、この段階でこうしてレビューを書いているのは、この作品が新しく、巨大な作品であり、筆を執らずにはいられなかったからだ。

 まだ書きたいことは山ほどあるが、いったん筆をおいて、3巻を読むことにする。

【レビュー】『負けヒロインが多すぎる!』

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負けヒロインが多すぎる! (ガガガ文庫) 書影


〇 ラブコメの王道

 

『負けヒロインが多すぎる!』(第1巻)を読みました。この作品の特徴ですが、その名のとおり、ヒロインがみんな失恋します

 

 なんなら、開幕即失恋です。

 

 主人公・温水和彦と、開幕即失恋した(負け)ヒロイン・八奈見杏菜のやりとりで話が進んでいきます。

 本来交わらないはずのカースト違いの主人公とヒロインの間に、継続的なやりとりを不自然なく展開していく。そのための仕掛けは、この作品に限らず、ラブコメのストーリーを進めるための大事な裏方です。

 この作品の場合、それは主に2つ。

① 温水が八奈見の飲食代を建替えていて、八奈見は温水に手作り弁当を作り、貨幣換算することでこれを返済していく。

② 失恋相手(袴田草介)とその彼女(姫宮華恋)や、失恋したことを知っている友人との気まずさから距離を置こうとしている

 

 ラブコメっぽくて良いですね。八奈見について、①をとおして、不器用ながら一生懸命に弁当を作るひたむきさが描かれ、②をとおして恋愛関係や友人関係に悩む普通の女の子である様子が描かれます。

 つかみや展開自体はさほど目新しかったり奇抜だったりするわけではないのですが、掛け合いからヒロインを描き出す技量が、特にコメディ要素織り交ぜながらヒロインの感情を豊かに表現する能力(それってラブコメのすべてですよね)が抜きんでています。

 

 その意味で、このラブコメは、王道的です。

 

〇 負けヒロインisエモい

 

 さて、八奈見の他にも登場人物がいて、それぞれに物語の展開があるのですが、今回は触れません。

 

 ところで、「負けヒロイン」の魅力ってなんでしょう。

 まず、負けているので、とりあえずフリーですね。(こういうと身も蓋もありませんが)

 しかし、ほとんどのラブコメのヒロインには恋人はいないので、それを強調する意味はあれど、それ自体新しくはありません。

 また、温水には失恋の傷心に付け入って距離を縮めようという下心も皆無です。

 それよりも大事なのは、負けヒロインの魅力は「恋する女の子」を描ける点だと思います。

 負けたのは、誰かに恋した結果なのです。

 負けヒロインにとって重要なのは、負けていることよりも、恋していることだと思います。

 だって、「恋する女の子」って、かわいいですよね。

 情緒不安定で、猪突猛進で、挙動不審で、感情があふれ出でしまう。

 ラブコメなんだから、感情を描いてナンボです。ラブコメは冷笑的ではだめです、主人公とヒロインの感情に真正面から向き合って描き切るのがラブコメです。

人は知らない他人の恋愛であっても、応援したくなったりするものです。

要するに、負けヒロインはエモいのです。

 

〇 作品の展開

 

 この作品の魅力は語ろうと思えばいくらでも語れます。私はまだラストシーンについて触れていないし、要所要所に小説内小説や寸劇を挟むことによる小説の緩急についても触れていない。でも、そうした魅力については私が書くまでもなく、各人がとっぷり味わえばいいと思います。

 

 それよりも少し考えてみたいのが、この作品の今後の展開です。

 ラブコメ、特に特殊なストーリー設定が敷かれておらず、基本的にはごく普通の学校生活における登場人物の動きだけで作品を展開していくラブコメ(僕はそれを勝手に王道ラブコメと呼んでいます(『とらドラ!』がその代表))は、第1巻は「つかみ」で強引に最後まで読ませることができても、シリーズを長く続けるためには、豊かな人間観に下支えされた物語の構想力がなければ立ち行きません。

第1巻では、ヒロインがひたすらに失恋し、その「負けヒロイン」っぷりを発揮しました。

2巻以降では、ヒロインたちがすでに一度失恋している中で、「負けヒロイン」感を改めてどのように出していくのか。ヒロイン全員が負けヒロインであることで、物語にどのような力学が働くのか。

 

 すでに、私にとっては愛すべき作品になっていますし、第2巻の発売が待ちきれませんが、ぜひラブコメの金字塔となるような偉大な作品になってほしいと、心から期待しています。

 

 

※なお、これを書いている間「はぁ、杏菜ちゃんかわいいよぉ」と5秒に1度くらい思っており、このレビューは、要は照れ隠しみたいなものです。

【論評】『現実でラブコメできないとだれが決めた?』

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現実でラブコメできないとだれが決めた? (ガガガ文庫)  第1巻書影

(前フリ)

「上野原彩乃はたった一人の、俺のラブコメにしかいない、特別な登場人物なんだ。だから頼む。これからも、俺を、俺の計画を――隣で、支えてくれないか?」(P308)

 

 今回は、この2行から、『現実でラブコメできないとだれが決めた?』という作品を分析してみたいと思っている。

 具体的には、長坂がこのセリフで何を伝えようとしているのかを明らかにしようと思う。

 

『現実でラブコメできないとだれが決めた?』は一言でいえば、「ラブコメ(フィクション)のような展開を現実において叶えようとするラブコメ(フィクション)」である。

(今回の投稿は一読した人向けに書いているため、あらすじや登場人物紹介は省く。)

 

 このセリフの前提を最低限振り返っておきたい。

 物語の最終盤(クライマックス)で、主人公・長坂耕平は共犯者・上野原彩乃の汚名を晴らすため、彩乃のこれまでの不審な挙動が、幼馴染として長坂を心配するがゆえのものであるとクラスのメンバーに明かす。

 そして、この発表は「ラブコメ創造」という主たるストーリーにおいて「キャラ属性を与えることで強引にラブコメの登場人物に仕立て上げる」という大技であった。

そんな感じ。

 

 現実に彩乃のピンチを救いつつ、ラブコメ計画の登場人物にしてしまう――この大逆転は、物語上の仕掛けとして抜群に面白いし、私たちの度肝を抜く。

 しかし、この仕掛けは、あくまでこれから分析しようとすることの前提である。

 

(共犯者と幼馴染)

 

 長坂は彩乃にとにかく何かを伝えようとしている。ひとつ明らかなのは、現在の「(裏舞台の)共犯者」という立場ではなく「(表舞台の)幼馴染」になってほしいということ――前者も後者もラブコメ創造計画を支えるという役割において変わりがない。しかし、長坂は彩乃に対し、「特別な登場人物」になってくれ、と告白している。実際のところ、長坂は彩乃に何を伝えようとしているのか。

 それは、当たり前の様で一見わかりにくい。

 わかりにくくしている理由の一つは、長坂がセリフの中で「幼馴染」を「隣で支える特別な登場人物」と言い換えていることにある。

 たしかにラブコメにおいて幼馴染は、主人公に世話を焼いたり、家族のように優しくある存在である。その意味で、幼馴染が主人公を「隣で支える特別な登場人物」であることに間違いはない。

 しかし、それは一面的である。幼馴染は主人公を隣で支えると同時に主人公にとってのヒロインでもある。

 いうまでもなく、「裏舞台の共犯者」と「表舞台の幼馴染」の決定的な違いは、ヒロインであるか否かであり、要するにあの2行で、長坂は彩乃に対し、「俺のラブコメのヒロインになってくれ」と告白している(※1)(※2)

 

(「ラブコメ」と「「ラブコメ」」)

 

 しかし、ここからが本題なのだが、長坂は彩乃に対して、より重大なことを伝えている。「俺のヒロインになってくれ」はある意味で愛の告白に等しいが、それよりも重大な告白である。

 

 もう一度「告白」のセリフを引用する。

 

 「上野原彩乃はたった一人の、俺のラブコメにしかいない、特別な登場人物なんだ。だから頼む。これからも、俺を、俺の計画を――隣で、支えてくれないか?」(P308)

 

 この一文はよく読むと不思議である。長坂は彩乃に対して特別な「登場人物」と言っている。登場人物とは、「ラブコメ創造計画」という表舞台のキャストである。しかし、同時に「俺の計画を――隣で、支えてくれ」と言っている。これは、舞台裏での仕事ではないか。

 結局のところ、長坂は彩乃に何を伝えようとしているのか。

 言葉にしてしまうとあまりに野暮だが、あえて言おう――長坂は、彩乃とラブコメ創造計画を進めているいまのこの現実、それ自体がすでにラブコメであると伝えている。

 その告白は、どのような意味を持つのか。

 長坂にとって、「ラブコメ」を実現することは、自分を貫くこと、つまり自分を肯定することに密接にかかわっている(それは過去のトラウマを披歴するシーンからわかる)。

 その長坂が、彩乃との日常それ自体が「ラブコメ」なんだと彩乃に伝えることは、「お前のおかげで、俺は自分の生を肯定できる」と伝えていることだと言っても、言い過ぎではない。

 現実でラブコメを創造しようとするコメディストーリーが、たった2行でラブストーリーに、そして主人公の自己承認をめぐる物語に変貌する――なんと感動的な告白であることか(※3)(※4)。

 

(締め)

 

 「長坂がセリフの中で「幼馴染」を「隣で支える特別な登場人物」と言い換えている」と書いたが、これは私の書き方に誤りがある。長坂にとって、彩乃は「ヒロイン」でも「幼馴染」でもなく、「隣で支える特別な登場人物」としか言いようのない存在になっている。あるいは、「ときに主人公を日陰で支えながら、ときに日向のヒロインである」という比喩的な意味で「幼馴染」と言えるかもしれないが、長坂にとっての彩乃はそのような「属性」で表現できるような存在からは全くかけ離れている。

 

 何度繰り返しているかわからないが、このような野暮な分析はするべきではない。しかし、言葉にせずにはいられない作品というものが世の中には存在する。そして、時折出会ってしまう。

 

 幸いなことに、この物語には続巻がある。であれば、やるべきは一秒でも早く第2巻を手に取ることである。

 そして、大事に、大事に読もう。

 

(注)

※1 長坂の告白は彩乃に伝わっただろうか――ここが作者のうまいところなのだが、彩乃はラブコメにうといと思われるので、この告白を「ヒロインのひとりになってください」という告白として受け取っていない可能性がある(少なくともそのような解釈の余地を残している)。そして、こうした認識のズレ、行き違いが主人公とヒロインの関係に奥行きを持たせる――ひとことでいうと、読者はそこに萌えるし、より直截に言うと、ニヤける。

※2 扉絵に書かれている清里芽衣のポジションが「ヒロイン」ではなく、「メインヒロイン」であることに注目。メインヒロインがいるということは、他にもヒロインがいる)

※3 ここまで読んでみると、引用の2行の中の「俺のラブコメ」という言葉が、「ラブコメ創造計画」ではなく、いままさに長坂が彩乃と歩むこの現実(作品世界)を指すことがわかる。(あーエモイ!)

※4 恋愛小説とは、何かを「告白する」もしくは「伝える」小説である。それは必ずしも「好きです」とか「付き合ってください」とかでなくても、「相手に伝えなくてはいけない強い思い」があれば、それは恋愛小説である。

 往々にして、恋愛小説は、その告白のたった一文のために数百頁が用意される。この小説はさきほど引用した一文でいかに読者を感動させられるかに全てがかかっているし、それまでの300ページはすべてこの告白の効果を最大化するための前戯であると言ってもいい。

そして、長坂から彩乃への「告白」は、この意味で完全に成功している。

 

(補稿というか追伸)

長坂は彩乃からよく「馬鹿」といわれるが、長坂の馬鹿さとは、いうまでもなく頭の悪さではなく、「現実を変えようとする無鉄砲さ」なのだから、ヒロイン(彩乃)に「自分を変えたい」と強く思うキャラクターを配置するのは、この作品の構造にマッチしている。

【ラノベ甘口レビュー】『飽くなき欲の秘跡』

 

 

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飽くなき欲の秘跡 第1巻 書影


 主人公・世杉見識は男子高校生にして異能を売買する店のアルバイト店員。異能とはいっても取り扱うのは「すね毛を抜く異能」「文字を判読する異能」など、地味で脱力させられるユニークなものばかり。見識の仕事はそんな異能所有者を見つけることだ。
 ある日見識が出会った少女・一二三英惟花は陸上部員で走り高跳びの選手で、ライバルに負けたくないという思いから「物体(ポール)の振動を抑える異能」を宿していた。熱い友情物語の幕開けを思わせるが、英惟花とライバル・霞風利との歪な関係が明かされるうちに見識は人間の業の深さを思い知らされることになる。
「異能の本質は不幸にある」と作中にあるように、この作品は決して色調の明るい物語ではない。しかし、「異能」という設定をユニークな形で使用して人間心理を描き出したこの作品はライトノベルとして新しく、そして確かな読みごたえがある。第9回小学館ライトノベル大賞審査員特別賞受賞作も納得の一作だ。

【ラノベ甘口レビュー】『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』(電撃文庫)

 

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明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。 (電撃文庫) 第1巻書影


 ある日、一人の少女の事故現場に遭遇した坂本秋月は、黒ローブの謎の人物から“おまえの寿命の半分で、彼女をたすけてやろうか”と選択を迫られる。男の提案に従い少女を救ったはずの秋月だったが、以来彼の身体は、一日おきに少女・夢前光の人格に乗っ取られるようになってしまう。その光がイタズラ好きなため、秋月が前日の光のイタズラのツケを払わされるというヤレヤレ系の新趣向の物語だ。二人には人格が交代している間の互いの記憶がなく、一日ごとに交換日記をするという形で連絡を取っている。ユニークな設定だが、身体不在のヒロインを日記という文字のやりとりだけで魅力的に描くことは容易ではない。光は「www」や「(キリッ)」などネット特有の表現を多用するのだが、下手をすれば浮いてしまいかねないそんな表現によって、自由奔放な光のキャラクターを造形しているところに作者の技量がうかがえる。また、相手の返事を待つワクワク(ハラハラ?)という、会話にはない緊張感が物語を貫いているところや、返事がないもどかしさが光の死の真相をめぐる物語後半のミステリー的な展開をうまく演出しているところなど、交換日記という道具を作品にうまく生かしている点も見事だ。そうしてヒロイン・光のハイテンションに乗せられて読み進めてゆくと忘れそうになるが、夢前光は死んだ存在だ。秋月が光の家を訪ね、母親から光のアルバムを見せてもらうシーンでは、光の生い立ちを収めた数枚の写真が見開きのイラストページで目に飛び込んでくる。その瞬間、読者の目に光が死んでいるという事実が強烈に立ち上がる。そこで初めてドタバタラブコメだったはずの物語が実は、永遠に会えない相手に恋をしてしまった少年少女の物語なのだと気づかされるという、うまい展開だ。交換日記を題材とした傑作にして、身体不在のヒロインを書ききった野心的な青春小説。第19回電撃文庫大賞・金賞受賞。全4巻。