【ラノベレビュー】現実でラブコメできないとだれが決めた?2
『現実でラブコメできないとだれが決めた?』(以下、「ラブだめ」)2巻を読みましたので、感想を書きます。
ただし、1巻のレビュー同様、詳細な登場人物紹介やあらすじ紹介はしない(そのくせ不用意にネタバレはする)ので、ご了承ください。
(1巻のレビューはこちら)
→ https://victor-kabayaki.hatenablog.com/entry/2021/09/22/175138
主人公・長坂耕平と上野原彩乃ペアはラブコメ創造計画の領域をグループからクラスへ拡大すべく、Q-U―Lなる新たな分析ツールも用いながら「集団ラブコメ適正」数値をあげようと、「地域清掃ボランティアイベント」の成功に向けて奮闘します。
1巻が長坂と上野原の作戦会議パートを中心に描かれていたのに比べると、2巻は自由時間のクラス内バレーボール対決など、多彩な登場人物通しのやりとりが賑やかな印象です。
そして、2巻のヒロインは、長坂に敵対し、クラスの輪を乱し、一連のイベントを邪魔し、集団ラブコメ適正低下の主要因である、勝沼あゆみ。
物語のクライマックスは、地域清掃ボランティアイベントを通しての勝沼あゆみの「ヒロイン化」であり、そこにいたる過程は1巻同様ミステリー仕立てになっていて読みごたえがあります。
勝沼は1巻から読者に悪印象を与える描かれ方をされていますが、最後にはきちんとヒロインになっているのが見事です。
個人的には、各巻で一人ひとりヒロインを「攻略(?)」していくゲーム的な展開はシリーズもののライトノベルとして安定するし、不良×ポンコツ=かわいいなヒロインがたまらないので、勝沼あゆみの次巻以降の活躍を見たいです。
1巻も2巻も、ヒロインがピンチに陥って、最後に長坂が大逆転させるという王道な物語展開ではありますが、1巻ラストの上野原と清里芽衣のやりとりを知っている読者にとって、2巻は1巻に比べ、ほどよい緊張感が漂っています。
そして、2巻のラストでは清里が長坂の計画に徹底抗戦することが宣言され、挿絵の効果もあいまって、読後にかなりインパクトを残します。
さて、清里が1巻と2巻のラストで見せる普通至上主義はなんなのでしょう。
本当は1巻のレビューで触れたかったのですが、長坂の上野原への「告白」が小説の構造としてあまりに見事だったので、その考察に終始してしまいました。
とはいえ、清里の考えは、読者が考察できるほどに語られておらず、たぶん過去に何か個人的な体験とかがあってそのような思想にいたっているのでしょうが、よくわかりません。
ただ、長坂の計画に反対の立場であることはわかります。
いったん、基本的なところに戻って考えてみましょう。
私の整理では、「ラブだめ」は以下のような物語だと言えます。
「ラブコメ」を現実で創造しようとする長坂の計画は、現実の様々な問題によりエラーを起こしてしまう。しかし、その計画のエラーを修正する過程がラブコメになっている。
(↑簡単に言うと「青い鳥」的なわけですが、物語が高いレベルで構造化されているので、作品の完成度は極めて高いです)
清里的には、長坂はうまく計画のエラーを修正して、個々の問題に対しては最善にたどり着くこともあるが、計画それ自体は断固否定すべきもの、といった感じなのでしょう。
長坂の計画は「ラブコメを作ろう」なのですから、清里による長坂の計画の否定は、(その直接的な意図がラブコメ批判かどうかはともかく、)ラブコメの否定になるわけです。
となると、「ラブだめ」という作品は、それ自体これ以上ないくらい、どうしようもなく「ラブコメ」であるにもかかわらず、作品中の人物が「ラブコメ」(=ラブだめという作品)を真っ向から否定している面白い構造になるわけです。
清里が長坂の計画のどの部分を具体的に批判しようとしているのかわかりませんが、いずれにしても、この作品をスリリングにしているのは、作品が持つこの構造的危険性にあります。
これから物語が進んでいくにつれて、清里の動きは具体的に明らかになるし、物語はいっそう面白くなると思うので、期待です。
ただ、最後に一つだけ言っておくと、確かに現実にラブコメなんて創造なんて理想主義、実現するはずがないのですが、しかし、「みんなが普通の生活を送るのを維持する」という清里の理想の方が、より実現不可能な理想でしょう。
清里VS.長坂がどうなるのか、期待です。