【ラノベレビュー】ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います 香坂マト(電撃文庫)

ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います(電撃文庫

「ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います」

 

あらすじはタイトルのとおり、ギルドの受付嬢・アリナが、残業をしないためにボスをソロ討伐する話である。タイトルで読者にストーリーをイメージさせることができるとは、つまりそれが秀逸なタイトルだということであり、しかも、それがたんなる「出オチタイトル」に終わらず、受付嬢がボスをソロ討伐できるほどの力を持っていることのギャップや不思議がそこには含まれていて、読者に本を開かせる魅力は十分だ。これほど秀逸なタイトルにはそうそうお目にかかれるものではない。

 ギルド最強のパーティ「白銀の剣」のリーダーであるジェイド・スクレイドは、アリナが難関ダンジョンでボスをソロ討伐する正体不明の冒険者“処刑人”であるという秘密を知り、アリナをパーティへ勧誘する。何としても安定した受付嬢(=公務員)の地位を守りたいアリナはそれに頑として応じない。追うジェイドと逃げるアリナ――中盤のコミカルでほほえましい掛け合いが、激しい魔物との戦闘シーンとの緩急を見事に作り出している。

ところで、この作品はギルドの受付嬢に焦点を当てたお仕事系小説としても読める。ギルドの受付嬢に焦点を当てたこと自体が新しいのだが、異世界特有の仕事事情の描かれ方が楽しい。例えば、新しいダンジョンができると案件受注数が増えたり、高ランクの冒険者から高圧的な態度を取られたりといった具合で、読者はリアリティをもって想像できるところだ。また、部下のしりぬぐいをする姿や有休のとり方ひとつで悩む姿は、我々読者も身につまされるところだろう。

異世界を舞台とした「お仕事系小説」は少なくないが、本作が面白いのはギルドの受付嬢と冒険者が、「労働」という観点から、公務員―フリーランス的な対比としてとらえられていることだ。実際、その対比こそが、“処刑人”という圧倒的な力を持ちながら受付嬢にとどまろうとする価値観のズレや、「追うジェイドと逃げるアリナ」の構図を可能にしていることに注目したい。

さて、もう一つ別の観点から、この作品の魅力を考えたい。

ダンジョンのボスが倒されないかぎり、ダンジョンからは魔物が湧いてくる。すると受注数も増え、アリナの残業時間も増える――こうした事情のため、言い換えれば、残業をなくすため、アリナは外套に身を隠し、誰にも気づかれぬよう、ダンジョンのボスを“ソロ討伐”する。これはつまり、アリナにとって、“処刑人”という役割は受付嬢という役割に対して従属的であるということだ。この構図自体が新しく、作品をユニークにしている。

このことは、例えば仮に以下のようなあらすじの物語があったと仮定すると、よくわかる。

 

受付嬢の制服を着ているアリナは世を忍ぶ仮の姿で、真の姿は謎の冒険者“処刑人”なのだ!

 

実際、このようなストーリーはありきたりであろう。しかし、本作でアリナは、“処刑人”は仮の姿であり、受付嬢こそが真の姿である、つまり受付嬢にアイデンティティを持っている。その価値観の逆転がこの作品の面白さを物語構造のレベルで支えている。

 

これまで書いてきたことで、この作品の魅力を多少なりとも明らかにできたと思うが、実はもっとも重要な点が残されている。しかし、これは作品の「ネタバレ」になりかねないので、未読の方は注意されたい。(もっとも、以下を読んだかからといって、初読の面白さを損なうことはないと、私は信じているが)

 

 さて、改めて考えると、「“処刑人”という圧倒的な力を持ちながら受付嬢にとどまろうとするのか」(問1)は不思議である。作中で受付嬢(公務員)-冒険者フリーランス)という対比的な労働観から説明されているが、それでも我々の感性からすると不思議である。しかし、実はそれ以上に不思議なのは、「なぜアリナがギルドの受付嬢を職業として選んでいるか(異世界には他に公務員的な職はあるだろうに)」(問2)だ。

 そして、問2に答えることは、おそらく同時に問1への答えにもなるだろう。

 

 「なぜアリナがギルドの受付嬢を職業として選んでいるか(異世界には他に公務員的な職はあるだろうに)」という問いは、アリナの幼少期のトラウマに関係している。

 アリナの実家は冒険者を客とする酒場を営んでおり、アリナは幼いころから店の客たちにかわいがられていた。特にシュラウドという若い冒険者とは特別仲が良かった。しかし、ある日を境にシュラウドは店に姿を現さなくなる。そして、アリナはシュラウドがダンジョンで死んだことを知る――

 以上のエピソードは、物語の起承転結における「転」にあたるといえる。それは、このエピオードが、有給休暇を消化してダンジョンに入ることをあれほど拒絶していたアリナを、物語の終盤の魔神シルハとの戦闘に向かわせるという「転」を生じせしめる、というだけでなく、「“処刑人”という圧倒的な力を持ちながら受付嬢にとどまろうとするのか」(問1)というアリナの行動原理が、公務員という安定した地位のため「ではない」可能性を読者に開示するからだ。

 いったん、問2の問題に戻ろう。

 ギルドの受付嬢をしていれば、見知った顔の冒険者の死に直面することもあるだろう。そして、その悲しみを幼少期のアリナは痛切に味わっている。にもかかわらず「なぜアリナがギルドの受付嬢を職業として選んでいるか(異世界には他に公務員的な職はあるだろうに)」。

 この問いに対しては、シュラウドがアリナに『アリナおめえ、将来は絶対美人になるから、受付嬢がいい』と言われたから――と一応回答できるのだが、それでは不十分であるように感じられる。

 この問題は、精神分析用語でいうところの否認――自己がその事実をそのまま認めると不安や不快を感じるような現実などを無意識に無視してしまう心の働き――が関係しているように思われる。

 具体的に言えば、アリナは、シュラウドの死へのショックの大きさに耐えきれずに、無意識的に「冒険者の死など大したことではない、自己責任だ」と思おうとするあまり、冒険者の死が間近にあるギルドの受付嬢を無意識に選び取っている、と考えられるということだ。

 これは、作中で瀕死のジェイドの元へ向かうアリナの切迫した内的独白からも見て取れる。

 

 案の定瀕死になって、あまあみろだ。本当に馬鹿だ。

 あんな馬鹿を助けにいく義理がどこにある。

 放っておけ――

 

ジェイドの瀕死が、冒険者(=シュラウド)の死の悲しみに直面することを無意識に避けてきたアリナの「否認」のさまを曝け出し、そしてアリナの行動を呼び覚ます。

 そして、 “処刑人”という正体がばれるかもしれないという危険を顧みず、アリナは受付嬢の制服姿で、ジェイドの元へ向かう。紙版258頁の、制服姿で大槌を振るう、一種狂気とも見えるアリナの姿がこれほど感動的なのは、ジェイドを助けたいという強い気持ちというよりも、外套(=「否認」)の殻を脱ぎ捨て、己の過去を乗り越えようとする姿がそこにあるからである。

 

 <巨神の破槌>を振るう時、彼女は同時に自分の弱い心に大槌を叩きこんでいた――圧巻の第27回電撃小説大賞金賞作

【ラノベレビュー】『豚のレバーは加熱しろ』 逆井卓馬 (電撃文庫)

豚のレバーは加熱しろ 逆井卓馬 (電撃文庫)

(作品紹介――未読者向け)

「豚のレバーは加熱しろ」

 強烈なタイトルである。また、その冒頭もライトノベル史に残る一文となるだろう。

 

 この物語を通して諸君に伝えたいことは、ただ一つ、豚のレバーは過熱しろということだ。

 

 いきなり語りかけてくる語り手、「諸君」という不遜な呼び掛けで何をいうかと思えば、「豚のレバーは加熱しろ」である。さらに、この語り手は異世界に転生した豚(の姿の人間)であることがすぐに明らかになる。

 瀕死の豚(なお、作中で豚=主人公の名前は一切明かされない)はイェスマ(という種族)の少女・ジェスの特殊な力で救われる。それをきっかけに、豚を人間の姿に戻すための、ジェスと豚の王都を目指す旅が始まる。このように書くと、さぞ愉快な珍道中が待っていると期待するだろう。しかし、その旅路でイェスマの過酷な運命と世界の謎が徐々に明らかになると、物語はとたんに緊張感を帯びる。いったい、この旅の終着地には何があるのか――読者によっては『銀河鉄道999』や『ファイナルファンタジーX』のような想像力が喚起されるかもしれない。

 むろん、シリアスは苦手だという読者も安心してほしい。なにせ主人公は豚である。豚扱いされることをご褒美として喜んだり、ジェスを背中にのせて××××させてみたり、または、役立たずの豚というイメージを裏切って、その優れた能力を使って問題を解決してみたり――そんな愉快な豚と天使のような少女・ジェスのやりとりが楽しくないはずがない。脇を固めるキャラクターもみな魅力的で、憎めない。王都への旅路の合間のコミカルなやりとりには、読者も過酷な運命を忘れ、笑えばよい。

 さて、物語のラストで、ジェスを思う豚の決意に、あなたがうっかり泣かされるか、はたまた熱い思いをたぎらせるか、それは読んでからのお楽しみだ。

 

 

 

(作品分析――未読者、既読者向け)

 以下では少し作品を深堀してみたい。ネタバレは避けているが、気にされる方は読了後に読まれる方がよいかもしれない。

 それにしても、なぜ豚なのか――いや、なぜ語り手(主人公)が豚になってしまったのかということではない、それは豚のレバーを生で食べたからだとはっきり書いてあるからだ。(こんな拍子抜けした事実を真面目に書かざるをえない滑稽さに、冒頭からすでにレビュアー(読者)がこの作品世界にからめとられている事実が窺えよう)

 そうではなくて、気になるのは、主人公が豚であることが、作品をどのように面白くしているか、だ。

 昨今のライトノベルなどでは、主人公が異世界に転生すると、動物はもちろん、スライムになったり自販機になったりするわけだが、そうした姿であっても思考は可能であり、また、なんらかの形で他者と意志疎通が可能な場合が多い。(そうでなければ物語になりにくい。意志疎通不可能な語り手という稀有な作品も存在するが。)その場合、発話ができる/できない、の両パターンが存在するが、この作品は後者である。

 具体的には、ジェスという名の少女が、イェスマという種族特有の相互テレパシー能力によって、それが可能となっている。

 イェスマという種族の特徴はネタバレになる――というか、この物語全体が、イェスマという種族の謎が徐々に明らかになっていく形で展開していく――のでここでは明かさないが、その謎が明らかになるにつれ、少女=ジェスと種族=イェスマと世界=メステリアの過酷な運命も明らかになるとだけ言っておこう。

 

 少し寄り道したが、さしあたって重要なのは豚である。豚の問題に戻ろう。

 

 先述の通り、この豚は発話能力を持たないので、「」による発話は行わず、その思考は字の文で表される。

 しかし、ジェスはテレパシー能力を持つため、その字の文をすべて読み取ってしまう。つまり豚には<隠し事>ができない。このことは、書き手(作者)の「語り」にとって小さくない障害であるはずだが、その不自由を巧みに操る点が見事である。

 

 じゃあもし、もしここで俺がその清らかな肌を見て「ブヒブヒ! 襲いたいブヒ! 豚の唾液でベトベトにしたいブヒ!」などと思った場合、彼女にはそれが分かってしまうのだろうか?

 少女の手が、ふと撫でるのをやめた。

「……ええ、まあ、そういうことになります」

 まずい! それでは俺の豚のような欲望が垂れ流しではないか!

 ジェスは申し訳なさそうな顔になる。

 

 ただし、豚も思考を読まれっぱなしではない。それどころか、テレパシー会話を生かしてジェスや読者を欺きもする、いわば「信頼できない語り手」である。

 

 ごめんな諸君。地の文で思考をすると、ジェスに感付かれてしまう可能性があった。だから、諸君には内緒で、俺はある計画を、頭の隅でぼんやり考えてたんだ。

 

<嘘だよ。地の文を捏造しただけだ。騙されたくなかったら、勝手に読まないことだな>

 

 実際、豚の中の人(眼鏡ヒョロガリクソ童貞)がなかなかの策士であるのだが、それは物語を読み進めていけば、自ずと知れよう。

 

 さて、発話能力を持たないことのほか、作者は豚という素材を余すことなく物語という料理に活かす。豚とオタクの親和性(?)を利用して「フゴッw」「ンゴw」と鳴かせてみたり、豚扱いされることをご褒美として喜んだり、ジェスを背中にのせて××××させてみたり、または、逆に役立たずの豚というイメージを裏切って、生物しての豚の優れた能力により問題を解決してみたり――要は豚という立場に甘んじない「できる豚」なのだ。

 そんなジェスと豚のコミカルなやりとりは、長距離走の給水ポイントのように、過酷な旅を並走する読者の緊張を和らげてくれる。

この点に、冒頭の「主人公が豚であることが、作品をどのように面白くしているか」への回答の一端があろう。

 

 ところで、主人公は豚、といってしまえば一言それまでなのだが、そこには実は巧妙はキャラクター造形がみてとれる。どういうことか。

 

 主人公は豚だが、中の人(転生前の「俺」)は「デブ」ではなく、「眼鏡ヒョロガリクソ童貞」だとされている。ここには、主人公が問題を解決するにあたって、理系的な知識を生かすという筋書き上の要請があったとみられるが、豚の中の人を「デブ」ではなく「ガリ」とすることは、はからずも人間としての主人公像を揺さぶり、ぼやかす効果が働いているだろう。

 さらにもう1点、ジェスは作中で終始主人公を「豚さん」と呼び、その本名は読者にもジェスにも明かされない。これは、ジェスと主人公が豚扱いする/される関係をコミカルに描く点で有効に機能しているが、結果的にあくまでジェスと豚(≠人間)という関係として描き切ろうとする作者の強い抑制の意志が感じられる。

 なお、主人公自身もあくまで豚とジェスという関係であることにこだわろうとするのだが、それについて触れることはネタバレ云々ではなく野暮である。第一、豚の決意にたいして失礼だ。いずれにしても、ここでは触れるまい。

 

 色々と述べてきたが、つまるところ、豚という主人公を、読者の感情移入を妨げずに書き切っている作者の技量は見事というほかない。この賛美以上に特に付け加えることはないので、このあたりで文章を締めたいと思う。

【ラノベレビュー】この△ラブコメは幸せになる義務がある。 (電撃文庫)

この△ラブコメは幸せになる義務がある。 (電撃文庫)

(作品紹介――未読者向け)

 主人公・矢代天馬は、高校2年生初日のクラス替えで、金髪碧眼の美少女・椿木麗良、「氷の女帝」と称したくなる気高さと美しさをまとう皇凜華と同じクラスになる。友人の速水颯太をはじめ、同級生の男子たちは踊らんばかりの喜びようだが、自称「恋愛ドロップ組」の天馬はどこ吹く風。

 ところが、凜華が麗良に強い恋愛感情を抱いているという秘密を知ってしまい、物語は動き出す。秘密を知ったのは不可抗力だったとはいえ、その忍びなさからうっかり『お前の気が済むならなんでもするから』と言ってしまい、そこから凜華の告白作戦の「共犯者」を担うこととなる――

 中盤は作戦の遂行をストーリーの主軸とした天馬と凜華のかわいい掛け合いに、魅力的なサブキャラクター矢代渚(天馬の姉)を交えたドタバタ調など、ラブコメを読む楽しさをフルコースで存分に味わわせてくれ、作品のクライマックスとなる「告白」シーンまで読者に息もつかせず一気に駆け上がる。そして物語の意外な展開は、物語に新たな緊張関係を吹き込み、読者を2巻へと誘う。

どの登場人物も魅力的で、読者は容易に感情移入し、安心して作品世界にのめり込めばよい。作品に充満する優しい雰囲気は、作者の人柄がなせるものか。優しさ×コメディによって「かわいい」ラブコメと呼びたくなるような、第28回電撃小説大賞

 

(作品分析――既読者向け)

 ※以下ネタバレ※

 本作の人間関係をあえて図式的に取り出すと、「A(凜華)のB(麗良)への恋を応援するC(天馬)」という構図となる。

 ラブコメを読みなれている読者には自明なように、その構図自体はありきたりである。ただ、その構図はA、B、Cにどのような性別をおくかによって、別種の物語装置として作用する点で興味深い。

 

(パターン1)

・A()のB(男)への恋を応援するC(

⇒Aがいつの間にかCに恋をしてしまう――(ア)

(パターン2)

・A(女)のB()への恋を応援するC(

⇒実はBはCのことが好きだ――(イ)

 

異性愛を前提とするなら、上記2パターンのいずれかである。AとBとCの性別をすべて同時に男⇔女へ反転させることはできるが、A、B、Cのどれかを任意に反転させることはできない。言い換えれば、上記2パターン両方について、A(の性別)≠B(の性別)である必要があり、かつ、パターン1が成り立ためにはA≠Cである必要があり、パターン2が成り立つためにはB≠Cである必要がある。

しかし、ここからが本題なのだが、本作はパターン1でもパターン2でもない。

 

(パターン3)

・A()のB()への恋を応援するC(

 ⇒Aがいつの間にかCに恋をしてしまう――(ア)

 ⇒実はBはCのことが好きだ――(イ)

 

 つまり、本作では、AとBを同性とすることで、(ア)と(イ)という二つの物語装置を両方とも作動させている。物語論的にはこの点から作品の妙味が解釈されよう。

 実際のところ、パターン1は三角関係と呼べまい。なぜなら、「Aがいつの間にかCに恋をしてしまう」ことは、A自身にとって驚きがあるとはいえ、「恋敵」が存在するわけではないからだ。

 一方、パターン2は三角関係といえそうだが、パターン1の「Aがいつの間にかCに恋をしてしまう」が加わることで、余計にスリリングな関係となることは間違いない。

 『この△ラブコメは幸せになる義務がある』に即していうならば、パターン1は「A(凜華)がいつの間にかC(天馬)に恋をしてしまう」となるわけだが、これだけでは△ラブコメとは言えまい。もちろん、それはそれで別の物語として成り立つのだが、「実はB(麗良)はC(天馬)のことが好きだ」があることで面白さを増しているということだ。

 さらに注目しておきたいのが、A(凜華)とB(麗良)の関係である。確かに「A(凜華)がいつの間にかC(天馬)に恋をしてしまう」のだが、だからといって、A(凜華)とB(麗良)が無関係ではなくなるわけではない。もしAとBが異性同士であれば、AにとってのBは「昔片思いしていた人」でしかなくなるのであるが、「A(凜華)がいつの間にかC(天馬)に恋をしてしま」ってもなお、A(凜華)とB(麗良)は親友のような関係として存続する。

 同作の同性愛の描き方に批判的な感想があるのは承知している。しかし、これまで見てきたように、上記の構図でAとBに同性をおくことで、物語論的な面白さが生まれることは間違いないのだ。

 同性愛の問題に限らず、全般的な小説技法には未熟さもあるかもしれない。しかし、着想だけは確かに従来のラブコメの物語文法を意識的に換骨奪胎三して見せるなど挑戦的なところがあるし、この作品の受賞をめぐって編集部への批判が妥当と思われるほどの違和感を憂くなくとも私は抱かなかった。続巻を期待する。

 

(以下、補足)

 以下の内容は本作とは離れるが、ラノベにおけるラブコメの古典的名作である『とらドラ!』も「AのBへの恋を応援するC」という構図を利用して、(ア)と(イ)を発動させている。どのような方法によってか見てみよう。

 

(パターン4)

・A()のB()への恋を応援するC()――(Ⅰ)

  ⇒Aがいつの間にかCに恋をしてしまう――(ア)

・C()のD()への恋を応援するA()――(Ⅱ)

  ⇒実はDはCのことが好きだ――(イ)

 

 A=大河、B=裕作、C=竜児、D=実乃梨であるが、つまり、(Ⅰ)と(Ⅱ)という二つの人間関係軸を設定し、(Ⅰ)から(ア)を、(Ⅱ)から(イ)をそれぞれ導いているのである。

 そして、(I)と(Ⅱ)でA=大河とC=竜児が対称的かつ相互乗り入れ的な役割を果たすことで、関係に緊張感を呼び込み、複雑な人間模様を可能にしているのである。

 以上を踏まえたうえで、『とらドラ!7』から亜美のセリフを以下に引用して、この文章を終えたい。(それ以上言葉はいらないだろうが、E=亜美が以上の図のどこにもいないことだけ、蛇足ながら付け加えておく)

 

「高須君とタイガーの関係は、すっごく不自然。すっげぇ変。こんな幼稚なおままごと、もうやめた方がいい。きっと最初から間違ってたのよ。大怪我する前に目を覚ましたら。全部チャラにしなよ。それで一から始めたらいいじゃん。あたしのことも、一から入れてよ。出来上がった関係の『途中』から現れた異分子じゃなくて、スタートのそのときから、あたしも頭数に入れて。そうしたらあたしのこともっと……あたしも、……あたし、は、」(P132)

【ラノベレビュー】給食争奪戦 (電撃文庫)

給食争奪戦 (電撃文庫)

 第20回電撃小説大賞<電撃文庫MAGAZINE賞>受賞作。小学生を登場人物とした4つの短編と、最後の1編はそれまでのストーリーで登場してきたキャラクターたちが高校生となって活躍する、全5編の群像小説。表題作「給食争奪戦」は年一回の究極の給食デザートであるケーキをめぐって、一人の少年がクラスのボスに挑む話だ。小学校の教室であれほどの政治的やりとりが行なわれる様はちょっと想像しがたいが、「給食」を扱った小説というのがまず新しく、それだけで十分面白い(※)。

 他の収録作は、金目のものを要求されるいじめられっ子のために、万引きを働いてその子の机にこっそり入れておくという義賊(?)の話や、消しゴムフェティシズムの男の子の話など、小説の題材の切り取り方はなかなかおもしろく、物語の筋もそれなりだ。

 さて、給食のデザートや消しゴムがクラスの最大の関心事となる小学生は無邪気でかわいいものだが、ある意味ではほんの些細なことが火種になりかねないのだとも言える。そういった危うさの上に立っている作品だと言うことも忘れてはならないだろう。作者のアズミが中学校や高校、あるいはもっと別の集団で同じ趣向の群像小説を書くとしたら、どんな切り取り方をするのか。次作に注目したい。

 

※なお、小学生たちが自分たちの間で疑似貨幣を作って国家運営を始めてしまう谷崎純一郎『小さな王国』がある。

【ラノベレビュー】隙間女(幅広)(電撃文庫)

 

隙間女(幅広) (電撃文庫)

 都市伝説を題材としたボーイミーツガール短編集。表題作の「隙間女(幅広)」は、家具と家具の隙間にいる「隙間女」を広所恐怖症と解釈し、部屋の外から出られない引きこもり少女として描く。主人公の部屋という小さな世界で展開される主人公とヒロインとの掛け合いが作品のメインとなる作品だ。ただ、それだけでは作品は平凡なものとして終わっていたはずだ。この作品は広所恐怖症としてではなく、太った存在として隙間女を描いくことが面白さを演出している。どういうことか。

 ほんのわずかなスペースに入り込む隙間女は、本来極めて痩身なはずである。この作品に登場する隙間女は人間としてはむしろ細身なのに、太っていることを気にしている。ポッチャリ系好きの主人公にとって、そんな隙間女が自分のことを「太っている」と称することは許せず、むしろどんどん食べることを推奨する。食べることの誘惑と隙間女としてのアイデンティティの間で葛藤しながら、結局おいしそうに食事をしている場面は読者に微笑ましく映る。

 作中で、太っているのを気にする少女はかわいいと触れられているが、ライトノベルにおいて本当にぶくぶくに肥ったヒロインを作品に登場させるのは冒険となる。この作品は「隙間女」と「人間」の違いを上手く利用して、ビジュアル上は決して太っていない少女の切実なダイエットの葛藤を描くことに成功した良作だ。

『千歳くんはラムネ瓶のなか』における焦点移動

千歳くんはラムネ瓶のなか 5

まだ未完の論考です。

今回投稿する部分は、「焦点移動」というニッチな内容で、しかも冗長のわりにしょうもないことしか言っていないです。

これから本題に入っていくにあたっての準備運動みたいなものですが、自分の背中をたたく意味でも、この部分だけ投稿してみることにしました。(恥ずかしくなって、または全体の構想から不要と判断してあとで削除するかもしれません。。。)

 

=====以下、本文=====

以下は、『千歳くんはラムネ瓶のなか』5巻及び6巻の考察です。

あらすじ、登場人物の紹介などは省略しますが、一方でネタバレはあります。

読み終わった方向けに書いた文章であること、あらかじめご承知おきください。

 

(作品の解剖)

本稿では、『千歳くんはラムネ瓶のなか』(以下、『チラムネ』)の5巻及び6巻を私なりに解剖する。

ここであえて「解剖」という言葉を使うのは、本稿が

 

批評ではなく(例えば作品を作品外の別の文脈と接続させることで、なにか新たに意味づけを行おうと意図するものではない)、

論文でもなく(学術的な強度などあるはずもない)

書評(レビュー)でさえない(この文章を通じて作品の読者を増やそうという努力をしているわけではない)

 

からである。

実際、私はこの作品で何が行われているのかを丹念に追うことに注力しているからだ。一言でいえば、オタク的に、マニア的に読解している。

 

作品を丹念に追うといっても、5巻、6巻では特に登場人物それぞれが心に様々な葛藤を抱え、自分、そして他者に向き合おうとする姿が描かれており、そのすべての心理的な動きをすべて丁寧に救い上げて分析してみせることは、決して無駄なことではないと思うが、それはそれぞれの読者が、時にAという人物に、またある時はBという人物に感情移入するということを交互に繰り返しながら、各々味わえばよく、そうした情緒にまでメスを入れようとすることは野暮でしかない。

本稿では、5巻ラストの夕湖の≪告白≫(≪≫を用いるのは、夕湖の告白が持つ多重性を見失わないがためである)を朔がどのような問いとして受け止め、物語はその問いをいかに昇華していくかに的を絞って考えたい。

ただし、この問題は、結果として、5巻、6巻、延いては「折り返し」(「6巻」P613)に至ったこの作品全体を貫くことになるだろう。

夕湖の≪告白≫が「朔にとって」どのような問いを突き付けるのかを明らかにするため、まずは、『チラムネ』という作品(以後、単に「作品」というとき、特に断りがない限り、『チラムネ』1巻から6巻をさす)における「焦点移動」の問題を整理しておきたい。

 

(ヒーローと焦点移動)

 『チラムネ』は主人公・千歳朔がヒロインや男性の友人(以下、ヒロインたち)が抱える問題を次々に解決していく物語である。この捨象の仕方に異論はあろうが、それでも朔が1巻で健太を引きこもりから救い、2巻で悠月をストーカーから救い、3巻で明日風に夢と向き合う勇気を与え、4巻で陽のハートに火をつけた(ハートに火をつける方法を教えた)所業はヒーロー以外の何物でもない。

 

 ところで、この作品は基本的に朔の一人称「俺」を焦点(特定の人物の角度からの語りには「見る」以外の様々な感覚があるため、一般的に「視点」ではなく「焦点」という呼び方をする)に物語が進行するが、1巻から4巻までは、いずれも最終章でヒロインたちに焦点が移動する。

 

 これは、人生の一発逆転をかけた、山崎健太の非リア成り上がり物語だ。

 俺、山崎健太は、いつか神が言っていたことを思い出しながら、一歩、また一歩とスタバに近づいていく。(vol.1 p298

 

 私、七瀬悠月は特別な女の子なのだと、けっこう早いうちに気づいていた。(vol.2 p306

 

 ここは、この場所は、私、西野明日風が生まれて、小学校までの五年生までを過ごした町だ。(vol.3 p321

 

 試合の朝は気配が違う、と思う。

 私、青海陽は、ばくばくと高鳴る胸の鼓動でたたき起こされた。(vol.4 p303

 

ただし、4巻四章では朔と陽の焦点が交互に移動したり、最終章以外でも(vol.3 p192)、(vol.4 p87)(vol.4 p230)でヒロインたちに焦点移動が行われていたりと、例外は存在する)。

 この焦点移動は、軽薄性を装う朔が、ここぞという場面(クライマックス)に颯爽と(突然に)現れてヒロインたちを救うという物語を盛り上げる効果を果たしている。(言うまでもなく、朔に焦点があったら、朔はヒロインの前に「前触れなく」登場することはできない)

 

(告白と独白)

 しかし、5巻においては、4巻までと異なり、最終章を待たず、夕湖が随所に焦点化されている。また、朔が「私」の語りの中に颯爽と現れて問題を解決することもない。

 当たり前のことだけが、ヒロインたちの悩みは朔に対して本人から事前に打ち明けられており(第三者からの伝聞も含む)、だからこそ朔は救うことが可能となる。

 しかし、5巻においてはそうではない。夕湖は「朔への」告白をめぐって悩んでいるのだから、朔に相談できるはずもない。

 だからこそ、夕湖の葛藤は「俺」との会話の中ではなく、「私」の回想と独白を通して(ただし、あくまで予兆的に)読者に明かされる。

朔にしても、4巻までのように、それまでヒロインたちの抱えていた問題に対して、問題の外から颯爽と現れて解決することはできない。なぜなら、夕湖の抱えていた問題が≪告白≫によって明らかになると同時に、朔はその≪告白≫がはらむ問題の当事者、もっと言えば、ヒーロー(朔)自身がその問題の原因であることにたじろぐしかないからだ。

 以上のことは、語りの問題としては、2つの形で表れている。

 

 ①夕湖が朔に悩みを打ち明けられないため、その悩みは、4巻までのような朔との会話の中ではなく、夕湖の「独白」として予兆的に明かされるため、5巻では最終章を待たず、随所で夕湖が焦点化される。

 ②4巻までは最終章でヒロインたちによる「私」の視点から朔の鮮やかな解決が描かれていたのに対して、5巻四章では「俺」が夕湖の行動に圧倒されている。

 

(小説の技法)

 確かにこのような違いがある。しかし、こうした語りの分析になんの意味があるのか。

冒頭で説明したように、特に意味(読解の可能性の拡張)はない。実際、朔が1巻ごと

にヒーローとして課題を解決していく4巻までの物語と5巻のそれとがまったく異なる様

相である(これは「期待の地平を裏切る」と呼ばれている)ことは、こうした分析をせずとも明らかである。

 ただし、小説技術論的に意味がないわけではない。

小説家は物語の筋に応じた語りの操作を(意識的にしろ無意識的にしろ)行っているのであって、そうした作家の(天才的な)技巧を、読者として後追いながらも「小説技法」として明らかにしておくことは、大事ある。

なぜなら、技法は盗むこ


とができるからだ。作品の内容は盗んではいけない(盗作だ)が、小説技法としてきちんと抽象化したものはいくら盗んでも、少なくとも著作権上は問題ない。天才にはあやかるべきである。

 

 ただし、以上は5巻、6巻の特殊性を焦点移動という観点から裏付けたにすぎない。

 私の関心は、夕湖の≪告白≫がなぜ朔をあれほどたじろがせるのか、言い換えれば、告白のシーンで「残酷にも」焦点化され、その内面、つまり狼狽ぶりをさらすこととなってしまった千歳朔は、告白を通して何に直面しているのか、という点である。

 

(次回へ続く)

【ラノベレビュー】火界王剣の神滅者 (HJ文庫)

火界王剣の神滅者 (HJ文庫)

 

2013年の作品ですからもう10年近く前ですね。当時もあまり注目もされていませんでしたが、個人的には良作だと思っていました。以下の感想も2013年当時の物です。

誰かに届けば。

 

=====以下、本文=====

 

 ライトノベルで戦闘シーンを描くことは、常にディレンマをともなう。小説で戦闘の迫力や疾走感を描くためには、映像的でなければならない。しかし一方で漫画やアニメーションでは表現できない、文章表現特有の戦闘描写をしなければバトル系ライトノベルの存在意義は失われる。

 『火界王剣の神滅者』でうまいなと思うのは、「幾銭か幾万か、もはや数えるのも馬鹿らしい数の矢が」というような表現。数に圧倒されながら、しかも苦笑いを浮かべる余裕のある主人公・夏彦の皮肉が伝わってくるようで、戦闘描写と心理描写を一文で表現することに成功している。

 もちろん、この作品の持ち味は戦闘描写だけにあるのではない。夏彦とヒロイン・織姫の関係が注目される。読んでいるこちらが恥ずかしくなるほど、主人公は率直にヒロインへの愛を表すが、ヒロインはそれに対してどうにも冷たい。読者はそれがヒロインの「ツンデレ」であることは承知しているが、主人公があまりに率直に愛を表現するため、ヒロインの「ツン」の容量がいっぱいになり「デレ」が溢れてしまう。ただ、夏彦と織姫の関係の魅力は、「ツンデレ」という補助線だけでは語れない。無力な子どもでしかなかったがゆえに幼馴染の織姫との別れを余儀なくされた夏彦が五年の歳月を経て織姫のもとに騎士として帰還する。幼少時の事情を知らされている読者は成長した夏彦が旧知の織姫の前にさっそうと現れる瞬間、カタルシスを得る。しかしそれは守る男と守られる女という単純な構造へ還元されない。

「夏彦のことが好きならなおのこと、肩を並べて立ちたかった。一方的に守られるのは嫌なのだ。

――追いかけて、並び立つ」

 ほとんど織姫の独白に近いこの部分は、作中で詳細に描かれない夏彦と離れてからの織姫の五年間を想像させるにあまりある。織姫のツンデレというキャラクター性に物語性が付与される瞬間であり、思わず鳥肌がたつ。

 三人称の文体から巧みに各キャラクターへ視点を移動させる技術、メインの2人を引きたてながらなお個性を失わない脇役たちなど、挙げればきりがないが、この作品はちょっと欠点が見当たらないほど丁寧に作られている。どっしりと腰を落ち着けて書かれた感のある『火界王剣の神滅者』から目が離せない。