【ラノベレビュー】『ミス・ファーブルの蟲ノ荒園』(電撃文庫)

 

ミス・ファーブルの蟲ノ荒園(アルマス・ギヴル) (電撃文庫)

 

荒地〈アルマス〉

 それは少女にとって『楽園』と同義だった。

 

 時は19世紀のフランス、作中に「フランス革命」や「ナポレオン戦争」の文字が出てくるから、漠然と学校の世界史で習ったフランスをイメージすればよい。が、18世紀中頃からヨーロッパを中心に確認され始め、やがて世界各地で目撃されるようになった超常の生命体――〈蟲〉はこの世界にしかいない。大きいもので体長はゆうに20メートルを超える巨大さだ。ヒロインの少女・ファーブルは1840年代世界最小の飛行機械として知られる『シエルバレ』を操縦し、〈蟲〉を観察、撃退する。ただ、決して殺しはしない。むしろ巨大なフンコロガシに出合うと、間近で見ることができることに興奮し、ムッシューと呼びかけるほどに、〈蟲〉を愛している。その少女像は宮崎駿風の谷のナウシカ』を思わせる。

 さて、物語の冒頭、強烈な印象を持って現れる20メートル級のフンコロガシであるが、この物語は〈蟲〉を直接的に扱う物語では実はない。18世紀の終わりごろに発見された寄生虫型の〈蟲〉『シーメラ』が人間に寄生して変異した〈裸蟲〉たちが、自分たちの権利を勝ち取るために立ち上げたのが秘密結社〈ブリュム・ド・シャルール〉だ。主人公・秋津慧太郎とヒロイン・ファーブルが彼らのテロリズムを食い止めるための戦いがこの物語のクライマックスだ。

 ヒロインの紹介と物語のあらすじを紹介しておいて、主人公の紹介が遅れたが、主人公・秋津慧太郎は日本から船でフランスにやってきた武家の次男だ。

 寄生虫によって変異させられた人間というモチーフはどこかSF的なものを想像させるが、作者が19世紀のヨーロッパを舞台にしたことはもちろん意図的だ。テロリズムを画策する〈裸蟲〉たちはその容貌から一目で見分けがつく。異様で醜い。彼らは人として扱われずに虐げられている。自身の持つ特異な能力のせいで幼少のころに〈魔女〉と呼ばれ忌み嫌われた経緯を持つファーブルは、〈裸蟲〉たちの狩り出しを画策する枢機卿を暗殺しようとする〈ブリュム・ド・シャルール〉の計画を知りながら、それを止めることを躊躇している。一方で、慧太郎はテロリズムを断固許せないものとしてファーブルと真っ向から意見を対立させる。

 思い起こせば、19世紀のヨーロッパとは移民の世紀であった。19世紀の終わりごろから始まる急激な人口減少に歯止めをかけようとフランスが移民を受け入れはじめ、一次大戦の前にはかなりの数のイスラム系移民が移り住んでいたことは有名である。しかし、そうして移民が大々的に行われる前にも各国の独立運動からあぶれた人々の移民は起こっていたはずだ。彼らに対する扱いは必ずしも好意的なものばかりではなかっただろう。〈裸蟲〉はそんな〈原〉移民たちと重なる。また、ヨーロッパが魔女狩りの歴史を有しており、ファーブルがその特異な能力ゆえ〈魔女〉と呼ばれたという記述から、マイノリティをめぐるドラマの舞台としてこの時代のこの場所を選択したのだと想像することは間違いではあるまい。

 そして、日本からやってきた秋津慧太郎である。彼が日本からやってくる必然性は一見するとない。しかし、〈ブリュム・ド・シャルール〉のテロをめぐって、いけないことはいけないという慧太郎の正論に対して、ファーブルが「あんたが事あるごとに披露する青臭さっ、たまに我慢できないくらい鼻につくことがあるって!正しさの陰に隠れなきゃ満足に主張もできない人間なんて、つくづく手におえないわよ!」という時、それまで前景化されてこなかった「武士の次男」という慧太郎のアイデンティティ(と同時にコンプレックス)が強烈に意識される。それはまた、フランス人の少女と日本人の少年というまったく関係のない二人が、一方はかつてしいたげられた者、他方は武家という支配層の生れであるという非対称な立場であったことに遅ればせながら気づかされ、二人の断絶を生む場面でもある。19世紀のヨーロッパを舞台に、虫好きの異端な少女と日本からやって来た武家の次男の少年をペアで組ませて、マイノリティをめぐる問題に立ち向かわせる、というストーリーに、作者の巧妙さを感じさせる。

 冒頭の二行に戻ろう。ここでの荒地とは「雑草や潅木などが生い茂る不利用地」のことだろう。そこは様々な生命にあふれているが、人間には少々鬱陶しい。そんな荒地を「漂白」することに人間は慣れ過ぎてしまった。だから少しでもけがらわしいものを見ると排除せずにはいられない。しかし、ファーブルにとって、荒地は楽園だ。それは必ずしも彼女が蟲愛ずる姫君だからではない。雑駁なもの、汚きものも受け入れているありようを楽園と呼んでいるのだ。様々なものを受け入れられるからこそ、荒地は強い。物語は〈ブリュム・ド・シャルール〉によるテロで荒廃した街の描写で締めくくられる。引用しよう。

 

 彼女が高らかに言って、瓦礫ばかりが目立つ大通りを。少なからず血が流され、人々が醜悪さを露呈させた街の中を。それでも今は、誰もが再起に向けて協力し合う、その輪の中心を。

 慧太郎はその日、その瞬間、確かに幸福な荒園のなかにいたのだ。