【ラノベレビュー】『豚のレバーは加熱しろ』 逆井卓馬 (電撃文庫)

豚のレバーは加熱しろ 逆井卓馬 (電撃文庫)

(作品紹介――未読者向け)

「豚のレバーは加熱しろ」

 強烈なタイトルである。また、その冒頭もライトノベル史に残る一文となるだろう。

 

 この物語を通して諸君に伝えたいことは、ただ一つ、豚のレバーは過熱しろということだ。

 

 いきなり語りかけてくる語り手、「諸君」という不遜な呼び掛けで何をいうかと思えば、「豚のレバーは加熱しろ」である。さらに、この語り手は異世界に転生した豚(の姿の人間)であることがすぐに明らかになる。

 瀕死の豚(なお、作中で豚=主人公の名前は一切明かされない)はイェスマ(という種族)の少女・ジェスの特殊な力で救われる。それをきっかけに、豚を人間の姿に戻すための、ジェスと豚の王都を目指す旅が始まる。このように書くと、さぞ愉快な珍道中が待っていると期待するだろう。しかし、その旅路でイェスマの過酷な運命と世界の謎が徐々に明らかになると、物語はとたんに緊張感を帯びる。いったい、この旅の終着地には何があるのか――読者によっては『銀河鉄道999』や『ファイナルファンタジーX』のような想像力が喚起されるかもしれない。

 むろん、シリアスは苦手だという読者も安心してほしい。なにせ主人公は豚である。豚扱いされることをご褒美として喜んだり、ジェスを背中にのせて××××させてみたり、または、役立たずの豚というイメージを裏切って、その優れた能力を使って問題を解決してみたり――そんな愉快な豚と天使のような少女・ジェスのやりとりが楽しくないはずがない。脇を固めるキャラクターもみな魅力的で、憎めない。王都への旅路の合間のコミカルなやりとりには、読者も過酷な運命を忘れ、笑えばよい。

 さて、物語のラストで、ジェスを思う豚の決意に、あなたがうっかり泣かされるか、はたまた熱い思いをたぎらせるか、それは読んでからのお楽しみだ。

 

 

 

(作品分析――未読者、既読者向け)

 以下では少し作品を深堀してみたい。ネタバレは避けているが、気にされる方は読了後に読まれる方がよいかもしれない。

 それにしても、なぜ豚なのか――いや、なぜ語り手(主人公)が豚になってしまったのかということではない、それは豚のレバーを生で食べたからだとはっきり書いてあるからだ。(こんな拍子抜けした事実を真面目に書かざるをえない滑稽さに、冒頭からすでにレビュアー(読者)がこの作品世界にからめとられている事実が窺えよう)

 そうではなくて、気になるのは、主人公が豚であることが、作品をどのように面白くしているか、だ。

 昨今のライトノベルなどでは、主人公が異世界に転生すると、動物はもちろん、スライムになったり自販機になったりするわけだが、そうした姿であっても思考は可能であり、また、なんらかの形で他者と意志疎通が可能な場合が多い。(そうでなければ物語になりにくい。意志疎通不可能な語り手という稀有な作品も存在するが。)その場合、発話ができる/できない、の両パターンが存在するが、この作品は後者である。

 具体的には、ジェスという名の少女が、イェスマという種族特有の相互テレパシー能力によって、それが可能となっている。

 イェスマという種族の特徴はネタバレになる――というか、この物語全体が、イェスマという種族の謎が徐々に明らかになっていく形で展開していく――のでここでは明かさないが、その謎が明らかになるにつれ、少女=ジェスと種族=イェスマと世界=メステリアの過酷な運命も明らかになるとだけ言っておこう。

 

 少し寄り道したが、さしあたって重要なのは豚である。豚の問題に戻ろう。

 

 先述の通り、この豚は発話能力を持たないので、「」による発話は行わず、その思考は字の文で表される。

 しかし、ジェスはテレパシー能力を持つため、その字の文をすべて読み取ってしまう。つまり豚には<隠し事>ができない。このことは、書き手(作者)の「語り」にとって小さくない障害であるはずだが、その不自由を巧みに操る点が見事である。

 

 じゃあもし、もしここで俺がその清らかな肌を見て「ブヒブヒ! 襲いたいブヒ! 豚の唾液でベトベトにしたいブヒ!」などと思った場合、彼女にはそれが分かってしまうのだろうか?

 少女の手が、ふと撫でるのをやめた。

「……ええ、まあ、そういうことになります」

 まずい! それでは俺の豚のような欲望が垂れ流しではないか!

 ジェスは申し訳なさそうな顔になる。

 

 ただし、豚も思考を読まれっぱなしではない。それどころか、テレパシー会話を生かしてジェスや読者を欺きもする、いわば「信頼できない語り手」である。

 

 ごめんな諸君。地の文で思考をすると、ジェスに感付かれてしまう可能性があった。だから、諸君には内緒で、俺はある計画を、頭の隅でぼんやり考えてたんだ。

 

<嘘だよ。地の文を捏造しただけだ。騙されたくなかったら、勝手に読まないことだな>

 

 実際、豚の中の人(眼鏡ヒョロガリクソ童貞)がなかなかの策士であるのだが、それは物語を読み進めていけば、自ずと知れよう。

 

 さて、発話能力を持たないことのほか、作者は豚という素材を余すことなく物語という料理に活かす。豚とオタクの親和性(?)を利用して「フゴッw」「ンゴw」と鳴かせてみたり、豚扱いされることをご褒美として喜んだり、ジェスを背中にのせて××××させてみたり、または、逆に役立たずの豚というイメージを裏切って、生物しての豚の優れた能力により問題を解決してみたり――要は豚という立場に甘んじない「できる豚」なのだ。

 そんなジェスと豚のコミカルなやりとりは、長距離走の給水ポイントのように、過酷な旅を並走する読者の緊張を和らげてくれる。

この点に、冒頭の「主人公が豚であることが、作品をどのように面白くしているか」への回答の一端があろう。

 

 ところで、主人公は豚、といってしまえば一言それまでなのだが、そこには実は巧妙はキャラクター造形がみてとれる。どういうことか。

 

 主人公は豚だが、中の人(転生前の「俺」)は「デブ」ではなく、「眼鏡ヒョロガリクソ童貞」だとされている。ここには、主人公が問題を解決するにあたって、理系的な知識を生かすという筋書き上の要請があったとみられるが、豚の中の人を「デブ」ではなく「ガリ」とすることは、はからずも人間としての主人公像を揺さぶり、ぼやかす効果が働いているだろう。

 さらにもう1点、ジェスは作中で終始主人公を「豚さん」と呼び、その本名は読者にもジェスにも明かされない。これは、ジェスと主人公が豚扱いする/される関係をコミカルに描く点で有効に機能しているが、結果的にあくまでジェスと豚(≠人間)という関係として描き切ろうとする作者の強い抑制の意志が感じられる。

 なお、主人公自身もあくまで豚とジェスという関係であることにこだわろうとするのだが、それについて触れることはネタバレ云々ではなく野暮である。第一、豚の決意にたいして失礼だ。いずれにしても、ここでは触れるまい。

 

 色々と述べてきたが、つまるところ、豚という主人公を、読者の感情移入を妨げずに書き切っている作者の技量は見事というほかない。この賛美以上に特に付け加えることはないので、このあたりで文章を締めたいと思う。