【ラノベレビュー】『千歳くんはラムネ瓶のなか』

f:id:victor_kabayaki:20210926153134j:plain

千歳くんはラムネ瓶のなか (ガガガ文庫)  1巻書影


※このレビューでは、あらすじの紹介もしていなければ、面白かった、などの感想もありません、一般に使われる意味での「考察」でもありません。『千歳くんはラムネ瓶のなか』を読んで考えたことをダダ漏らしているだけなので、ご理解ください。

 

〇前提のお話し

 

まず、最初に断っておきたいが、『千歳くんはラムネ瓶のなか』(以下、チラムネ)は、既存の青春ラブコメが暗黙の前提としてきた多くのものを意識的に覆した歴史的作品だと思うし、その点で広く読まれるべき作品であると思う。

作品の完成度も高いと思う。特に文章表現能力は目を引く。会話は抑制が聞いていながら、時につやっぽく、ウィットにも富んでいる。長年ライトノベルを読んできた立場から、この作品を応援している。

そのうえで、これから、主人公・千歳朔について考察を進めていくのだが、人によってはこのレビューを作品に対して批判的な内容だと感じるかもしれない。

しかし、私としては、その意図はないし、絶賛するにしても批判するにしても、この作品について考えるとは、千歳朔について考えることからしか始まりえないのだ。

 

まずは、この作品が第13回小学館ライトノベル大賞優秀賞を受賞した際の、浅井ラボの講評を抜粋したい。

 

問題作です。出版にありがちな惹句としてではなく、本当の問題作で、編集部でも評価が分かれ、私も評価を定めにくい作品でした。作中の無邪気な邪悪さと暴力性という暴投は、大きな誤解を招くと感じました。

 

おそらくチラムネ読者はおおよそこの講評の言わんとすることが実感できるはずである。

そして、このレビューは、浅井ラボの講評を詳細に言語化しようとする試みである。

誰もが何となく理解している(それゆえにあえて言語化せずに済ませてしまう)ことをあえて取り上げて言語化する営みに意味があるのか。

「言われてみればそうだけど、それで?」とか「知ってた」とか「それを言葉にするのは野暮だ」という感想は甘んじて受け入れる。

しかし、わかっているつもりのことでも言語化することで初めて明らかになる地平というものは必ずある。

だから、このレビューでは、なぜこの作品が「問題作」であり、「無邪気な邪悪さと暴力性」とは具体的にどのようなことなのかを、「なんとなくそう思う」ではなく、きちんと言語化してみたい。さらには、「編集部でも評価が分かれ」る作品であるにもかかわらず、このラノ1位を獲得したかも考えてみたい。

 

〇 千歳朔は何が新しいのか

 

「五組の千歳朔はヤリチン糞野郎」―学校裏サイトで叩かれながらも、藤志高校のトップカーストに君臨するリア充・千歳朔。

 

 チラムネ読者には見慣れたリード文(1巻カバー背表紙のあらすじ紹介より)であるが、この文章は読者に一定の認識を促す。

それは、この小説の主人公の新しさは、トップカーストに君臨するリア充であるという点にある、という認識である。

実際には、その認識では不十分、というより間違っていると思う。

 

 確かに、1巻ではかなり露悪的にスクールカーストを強調して見せていた(その裏には、物語の始めと終わりで朔の印象にギャップを持たせるという狙いもあったと思う)。

しかも、朔はテータスとしてリア充である(勉強できる、運動できる、モテる)だけでなく、ウィットの富んだ会話を難なくこなし、オシャレをはじめあらゆる分野について自悦を述べるだけの知識と自信があり、そしてオタク文化を受け入れる(許容するだけではなく、オタク文化の中でもハードコアな作品をきちんと読む)度量も持っている。一人暮らしで料理も完ぺきに(冷蔵庫のありもので同級生に晩御飯をふるまえる程度に)こなす。教師からも信頼を得ている。

従来のラノベ主人公は基本的にスクールカーストの下位に属していたことと比較すれば、違いは明らかである。

 しかし、こうして並べ挙げておいてなんだが、根本的に朔が新しいのは、以上のような点ではない。同じく、朔が一定の読者に対して決定的に拒絶反応を起こさせるのも、以上のような点ではない

朔の最も大きな特徴は、実力主義的(≒弱肉強食的≒強者の論理的)世界観や勧善懲悪的世界観を持っているからだと思う。

 例えば、朔が健太の部屋の窓ガラスを割るシーンなどは、見方によってはかなり独善的であり、その後健太を「更生」させていくにあたってのやり方はかなり支配的である。

浅井ラボの言う「無邪気な邪悪さと暴力性」とは、端的にこのようなあり方を指している。

あるいは、1巻でも2巻でもラストに朔は悪に対して「正義の鉄槌」を下している。バトルものならいざしらず、青春ラブコメで真正面から敵を叩きのめすのは、既存の読者には、ちょっと刺激が強い。

こうした朔のふるまいそれ自体が悪いわけではもちろんない。ある意味で、そういう決断主義的な主人公像(場合によって暴力的な振る舞いも辞さないようなあり方)自体が既存の青春ラブコメの主人公像への挑戦であるのだから。

しかし、本当に朔がこの点においてのみ新しいのであれば、そのパーソナリティに多くの共感は得られないだろう。言い方を変えると、このラノ1位には輝かなかっただろう。

 この作品が巧妙なのは(念のために言うが、褒めている)、朔が「無邪気な邪悪さと暴力性」を持ちながら、決して粗野だったり、残酷なパーソナリティとしては描かれていないということだ。

例えば、以下は地の分における朔の語りである。(2巻200頁)

 

 だけど、いま胸のなかに渦巻く感情だとか、祭りの匂いだとか人々の喧騒だとか、そういうもの全部含めたこの瞬間を切り取って永遠に保存できないことが、まったく同じ瞬間は二度と経験できないということが、どうしようもなくさみしく思えたのだ。

 

 これはある意味で感傷的で、思春期らしい情緒である。この優しさと残酷さ、それゆえの理解されなさ、不器用さみたいなものをはらんだ複雑なパーソナリティとして描いている。ただ、それは例えば「大人は判ってくれない」トリュフォー)的な若者像ではない。朔はそれよりも強く、賢く、誤らない主人公である。

 こうした主人公に感情移入できるか(許容できるか)、または憧れるか、という点で、この作品への読者の主観的評価は決定的に分かれると思う。

 そして、この作品が「このラノ」1位として評価されたことは、このような主人公像が支持されたということに他ならない。

 このような主人公像が支持される時代背景として決断主義的なもの(『ゼロ年代の想像力』)を指摘できなくもないし、そっち方向の議論のほうが「点火力」を持っているとは思うが、作品から離れたそのような議論は、私の目指すところではない。

 いずれにしても、朔の主人公としてのパーソナリティの新しさが、リア充らしさや、「無邪気な邪悪さと暴力性」だけではないことを指摘するにとどめておく。

 

〇朔が読者を惹きつける引力

 

 恋愛小説とは、押し並べて登場人物同士の関係を楽しむものである。(ほとんどすべての小説に当てはまるが、恋愛小説は特にそうである)その意味で、チラムネは言うまでもなく、恋愛小説(青春ラブコメでもどっちでもいいが)である。

 しかし、チラムネは恋愛小説として読まれると同時に、主人公・千歳朔の思想や生き様への憧れを抱かせるのではないか、と思われる。

 繰り返しになるが、これまでのラノベの主人公は基本的にスクールカーストの下位であることがほとんどであったので、主人公とヒロインの関係に憧れることはあれ、主人公自身に憧れるということはまれであった(「涼宮ハルヒの憂鬱」のキョンや、「ソードアート・オンライン」のキリトはあこがれの対象となったかもしれないが、それはやはり屈折した憧れではないかと思う。)。

 一方、朔は中高生同士が評価をしあう際の尺度のすべてにおいて完璧であるような不惑の存在である。つまり、同年代の目指すロールモデル足りえる。このようなラノベ主人公は、かつて存在しなかったと断言していい。

 つまり、この作品は主人公像が新しいということを超えて、読者が主人公に憧れを抱くという点で、ライトノベルの消費のされ方として新しいのである。

 つまり、『太陽の季節』が「太陽族」を生み出したように、チラムネをバイブルとして、現実の生き方において千歳朔であることを目指すような読者がいるのではないか、ということである。

 ただ、これは推測でしかない。私が高校を卒業したのは遠い昔なので、中高生読者のリアルな読みはわからない(なんとかして知りたいと思うが)。

もしこの読みが当たっているとすれば、いまの読者がどうしてこのような主人公像をまっすぐに目指せるのか。スクールカースト上位の者への屈折はないのか、と不思議ではある。 

問いの立て方を変えると、1巻において、読者は健太に感情移入し、健太視点で物語を読んでいるのか。それともあくまで朔の視点なのか(もちろん、それは同時にであるのだけれど。というより、それができるのが小説の本領なのだし)

もしくは、バトルものにおける俺TUEEEEが青春小説に輸入されたと安易に考えていいのか。しかし、その場合、俺TUEEEEの輸入が、コメディ調の強い作品ではなく(そちらのほうが輸入しやすいように思われる。『リア王!』という名作が存在する)、チラムネのような作品であるのはどういうことなのか、という別の問題を惹起する。

 

〇 おわりに

 これは最初に告白するべきことであったが、私はまだこの作品を2巻までしか読んでいない。なので、ここに書いたことが今後修正される余地が大いにあると思う。

 過去の名作ラノベ群を振り返ったとき、2巻までしか読まずに作品全体を語ったような批評を行うことがいかに危ういか、十分に理解しているつもりであるし、私にとって、この作品は楽しく読みつつも、同時に未だ「得体のしれないもの」でもある。

 それでも、この段階でこうしてレビューを書いているのは、この作品が新しく、巨大な作品であり、筆を執らずにはいられなかったからだ。

 まだ書きたいことは山ほどあるが、いったん筆をおいて、3巻を読むことにする。