『千歳くんはラムネ瓶のなか』における焦点移動

千歳くんはラムネ瓶のなか 5

まだ未完の論考です。

今回投稿する部分は、「焦点移動」というニッチな内容で、しかも冗長のわりにしょうもないことしか言っていないです。

これから本題に入っていくにあたっての準備運動みたいなものですが、自分の背中をたたく意味でも、この部分だけ投稿してみることにしました。(恥ずかしくなって、または全体の構想から不要と判断してあとで削除するかもしれません。。。)

 

=====以下、本文=====

以下は、『千歳くんはラムネ瓶のなか』5巻及び6巻の考察です。

あらすじ、登場人物の紹介などは省略しますが、一方でネタバレはあります。

読み終わった方向けに書いた文章であること、あらかじめご承知おきください。

 

(作品の解剖)

本稿では、『千歳くんはラムネ瓶のなか』(以下、『チラムネ』)の5巻及び6巻を私なりに解剖する。

ここであえて「解剖」という言葉を使うのは、本稿が

 

批評ではなく(例えば作品を作品外の別の文脈と接続させることで、なにか新たに意味づけを行おうと意図するものではない)、

論文でもなく(学術的な強度などあるはずもない)

書評(レビュー)でさえない(この文章を通じて作品の読者を増やそうという努力をしているわけではない)

 

からである。

実際、私はこの作品で何が行われているのかを丹念に追うことに注力しているからだ。一言でいえば、オタク的に、マニア的に読解している。

 

作品を丹念に追うといっても、5巻、6巻では特に登場人物それぞれが心に様々な葛藤を抱え、自分、そして他者に向き合おうとする姿が描かれており、そのすべての心理的な動きをすべて丁寧に救い上げて分析してみせることは、決して無駄なことではないと思うが、それはそれぞれの読者が、時にAという人物に、またある時はBという人物に感情移入するということを交互に繰り返しながら、各々味わえばよく、そうした情緒にまでメスを入れようとすることは野暮でしかない。

本稿では、5巻ラストの夕湖の≪告白≫(≪≫を用いるのは、夕湖の告白が持つ多重性を見失わないがためである)を朔がどのような問いとして受け止め、物語はその問いをいかに昇華していくかに的を絞って考えたい。

ただし、この問題は、結果として、5巻、6巻、延いては「折り返し」(「6巻」P613)に至ったこの作品全体を貫くことになるだろう。

夕湖の≪告白≫が「朔にとって」どのような問いを突き付けるのかを明らかにするため、まずは、『チラムネ』という作品(以後、単に「作品」というとき、特に断りがない限り、『チラムネ』1巻から6巻をさす)における「焦点移動」の問題を整理しておきたい。

 

(ヒーローと焦点移動)

 『チラムネ』は主人公・千歳朔がヒロインや男性の友人(以下、ヒロインたち)が抱える問題を次々に解決していく物語である。この捨象の仕方に異論はあろうが、それでも朔が1巻で健太を引きこもりから救い、2巻で悠月をストーカーから救い、3巻で明日風に夢と向き合う勇気を与え、4巻で陽のハートに火をつけた(ハートに火をつける方法を教えた)所業はヒーロー以外の何物でもない。

 

 ところで、この作品は基本的に朔の一人称「俺」を焦点(特定の人物の角度からの語りには「見る」以外の様々な感覚があるため、一般的に「視点」ではなく「焦点」という呼び方をする)に物語が進行するが、1巻から4巻までは、いずれも最終章でヒロインたちに焦点が移動する。

 

 これは、人生の一発逆転をかけた、山崎健太の非リア成り上がり物語だ。

 俺、山崎健太は、いつか神が言っていたことを思い出しながら、一歩、また一歩とスタバに近づいていく。(vol.1 p298

 

 私、七瀬悠月は特別な女の子なのだと、けっこう早いうちに気づいていた。(vol.2 p306

 

 ここは、この場所は、私、西野明日風が生まれて、小学校までの五年生までを過ごした町だ。(vol.3 p321

 

 試合の朝は気配が違う、と思う。

 私、青海陽は、ばくばくと高鳴る胸の鼓動でたたき起こされた。(vol.4 p303

 

ただし、4巻四章では朔と陽の焦点が交互に移動したり、最終章以外でも(vol.3 p192)、(vol.4 p87)(vol.4 p230)でヒロインたちに焦点移動が行われていたりと、例外は存在する)。

 この焦点移動は、軽薄性を装う朔が、ここぞという場面(クライマックス)に颯爽と(突然に)現れてヒロインたちを救うという物語を盛り上げる効果を果たしている。(言うまでもなく、朔に焦点があったら、朔はヒロインの前に「前触れなく」登場することはできない)

 

(告白と独白)

 しかし、5巻においては、4巻までと異なり、最終章を待たず、夕湖が随所に焦点化されている。また、朔が「私」の語りの中に颯爽と現れて問題を解決することもない。

 当たり前のことだけが、ヒロインたちの悩みは朔に対して本人から事前に打ち明けられており(第三者からの伝聞も含む)、だからこそ朔は救うことが可能となる。

 しかし、5巻においてはそうではない。夕湖は「朔への」告白をめぐって悩んでいるのだから、朔に相談できるはずもない。

 だからこそ、夕湖の葛藤は「俺」との会話の中ではなく、「私」の回想と独白を通して(ただし、あくまで予兆的に)読者に明かされる。

朔にしても、4巻までのように、それまでヒロインたちの抱えていた問題に対して、問題の外から颯爽と現れて解決することはできない。なぜなら、夕湖の抱えていた問題が≪告白≫によって明らかになると同時に、朔はその≪告白≫がはらむ問題の当事者、もっと言えば、ヒーロー(朔)自身がその問題の原因であることにたじろぐしかないからだ。

 以上のことは、語りの問題としては、2つの形で表れている。

 

 ①夕湖が朔に悩みを打ち明けられないため、その悩みは、4巻までのような朔との会話の中ではなく、夕湖の「独白」として予兆的に明かされるため、5巻では最終章を待たず、随所で夕湖が焦点化される。

 ②4巻までは最終章でヒロインたちによる「私」の視点から朔の鮮やかな解決が描かれていたのに対して、5巻四章では「俺」が夕湖の行動に圧倒されている。

 

(小説の技法)

 確かにこのような違いがある。しかし、こうした語りの分析になんの意味があるのか。

冒頭で説明したように、特に意味(読解の可能性の拡張)はない。実際、朔が1巻ごと

にヒーローとして課題を解決していく4巻までの物語と5巻のそれとがまったく異なる様

相である(これは「期待の地平を裏切る」と呼ばれている)ことは、こうした分析をせずとも明らかである。

 ただし、小説技術論的に意味がないわけではない。

小説家は物語の筋に応じた語りの操作を(意識的にしろ無意識的にしろ)行っているのであって、そうした作家の(天才的な)技巧を、読者として後追いながらも「小説技法」として明らかにしておくことは、大事ある。

なぜなら、技法は盗むこ


とができるからだ。作品の内容は盗んではいけない(盗作だ)が、小説技法としてきちんと抽象化したものはいくら盗んでも、少なくとも著作権上は問題ない。天才にはあやかるべきである。

 

 ただし、以上は5巻、6巻の特殊性を焦点移動という観点から裏付けたにすぎない。

 私の関心は、夕湖の≪告白≫がなぜ朔をあれほどたじろがせるのか、言い換えれば、告白のシーンで「残酷にも」焦点化され、その内面、つまり狼狽ぶりをさらすこととなってしまった千歳朔は、告白を通して何に直面しているのか、という点である。

 

(次回へ続く)